花岡が死んだ!

「花岡悟が死んだ」と『虎と翼』のなかでの衝撃的な伝えらえ方に驚いて、ドラマの展開を注視しています。

【虎に翼】花岡悟のモデル山口良忠さん!正義感を貫いた男の悲劇的な最期 | ドラマランド

ぼくは、花岡悟が佐賀県の出身、さらに法曹界にいて、判事だという設定に、ひょっとしたらという思いを持っていました。

 

戦後、佐賀県出身の判事が、法を守るために、ヤミ米を食べず、遂には「餓死」したという事件のことを、知っていたからです。確か山口という名前の人だったと。

 

今回のドラマでの放送もあり、いろいろと調べてみました。

 

     鉛筆   メモ   鉛筆

 

ドラマの方は、《東京地裁の経済事犯専任判事として主に食糧管理法違反の事案を担当していた花岡悟(岩田剛典)が、違法である闇市の食べものを一切拒否して栄養失調で亡くなった》ということでした。実際に亡くなったのは1947年10月11日。そのことが当時の朝日新聞にて報道されたのは、亡くなって20日ほどたってからのこと。

 

山口良忠 に対する画像結果

この花岡悟のモデルとなった山口良忠という判事が亡くなった事件は、以下の記事に詳しく紹介されています。


山口判事は、食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いを持っていたとされます。 

 

 

 

佐賀新聞は山口判事の地元であるにもかかわらず事件当時、一切報道をしておらず、同新聞資料調査室によれば、「占領軍に遠慮があったのかもしれない」とされています。さらに、当時の日本国民は、この法律の遵守できない程に、食糧危機が深刻で、山口判事の他にも裁判所関係者のなかに、結核で倒れたり、栄養不足のために命を失うものいたといいます。

 

鹿島中学(旧)の同窓生!!

この調べる過程で驚いたのは、何と、山口判事の出身地はわが故郷・鹿島市の隣町の白石。旧制中学は鹿島中学。(現在の県立鹿島高校)ぼくの母校だったこと。

鹿島中学(旧)―佐賀高校(旧)―京都帝大卒という経歴をもつ人だった。

1913年の生まれ、ということは、わが父の旧制中学の2年先輩だったこと。

 

父は1916年の早生まれ、経歴は、鹿島中学―福岡高校―東京帝大卒なので、同じ時期に鹿島の中学で過ごしていたのだろうから、知っていたかもしれません。戦後、東京暮らしを辞め、一時期、県の役人の一端にも関わり、社会運動にも関与し始めていた父が、何も発言していないとは思えませんが。

我が父は、この山口判事が栄養不足、結核によって亡くなった事件を、当然知ってはいたと思うけれど、ぼくは、父からも母からも、山口判事のことを聞いたこともありませんでした。

 

また、高校時代、新聞部に加わり、比較的地域の歴史も含む状況に触れることの多かったぼくは、山口判事のことで、鹿島中学の卒業生だったなどと聞いたことはありませんでした。

この故郷の地域では全国レベルのセンセーショナルな事件の事が、全く伝えられていないことに驚きました。(さすがに近年、現在、佐賀、白石では様々に取り上げられているようですが。)

 

この山口判事の死は、大事件として中央や他の各地では報道されていますが、地元の地域紙である佐賀新聞が当時全く報じなかったことなどから勘案すれば、この事件の話題を地元ではしにくかったのではないか。どうやら、それは、確かに敗戦後の占領軍(アメリカ軍)への配慮からということがあったとしても、それだけではなかったことも考えられます。法を守ることの意味、それも明らかな悪法に対して、死を受け入れるという行動の評価の難しさもあったのかもしれません。

(ご子息自身が、父親の行為にたいして一定の批判をしておられます。)

国民的な飢餓という危機についての法的な問題も絡む事件、地元では話題にできにくかった事情も含め、さてどうなのか、今度帰省した時に、その背景を調べてみたいと思います。

 

ハンセン病者の飢餓死にも通じること

この戦中から戦後の日本人の飢餓という問題は、ハンセン病のことを調べているときにも考えさせられました。

 

ハンセン病問題で、全生園自治会会長として活躍した松本馨さんの『いのちの重み』の中に以下のような文章があったことを思い出しました。 

 

「…ここでは麦メシに患者の作った野菜の煮付けとつけ物が副食であったが、戦争の激化するにしたがって、それも食べられなくなり、主食は甘藷や馬鈴薯、かぼちゃや、ダイコンにかわりその葉やイモづるが副食となった。

 所内に棲息していた小動物、野良犬や、野良猫、ヘビ、カエル、野島は唯一の動物性たんぱくとして食した。胸を病んでいる者はネズミの裸の子を生きたまま飲んだ。気の狂っていた患者は誰も食べようとしない毛虫やイモ虫をとって食べていた。

 栄養失調で患者は皆痩せこけていたが、なぜかイモ虫は丸々と太っていた、それを生のまま泡を吹きながら食べているのを見たとき、私はこの世界は生きながらの地獄と思った…」

 

その松本さんのもとで、ハンセン病の資料を広く残していた山下道輔さんの証言に以下のようなことがありました。

 

「(戦争末期は)サツマイモを植えて収穫し、部屋で、大鍋でふかし食べたりしたが、食料事情は、悪かった。戦時中の方が配給があり、まだましだった。戦後はさらに厳しくなった。…」

 

山下さんの話を裏付けるために、戦中・戦後の全生園での死者数を調べたら、1945(昭和20)年には、10人に1人が亡くなっています。ほとんどの方が、栄養失調からの病死でした。

 

全生園内での死者数(「ハンセン病児問題史研究」p.312)です。

  年        入所者   死者数(%)

1941(昭和16)年  1470人   89人  6.1%

1942(昭和17)年  1628人 149人  9.2%

1943(昭和18)年  1660人 114人  6.9%

1944(昭和19)年  1696人 136人  8.0%

1945(昭和20)年  1480人 142人  9.6%

1946(昭和21)年  1305人 105人  8.0%

1947(昭和22)年  1229人   57人  4.6% 

 

山口判事の餓死(栄養失調による結核の悪化)は、ハンセン病患者の過酷な当時の日々とつながっていたということでしょう。

(戦争中の方が、配給制度が維持されていた分、戦後直後よりまだましだったという証言も聞いています。園内の患者の10%が栄養失調による死という数年が続きました。)

 

    キラキラ キラキラ キラキラ

 

ところで、よねさんと轟が生きていた。(ドラマの中でね)

二人して、弁護士として協力するという握手。