阪田寛夫・組詩『川と少年』から、「空の川」、「水の匂い」、「『絶対に』は否定の副詞」の3編。

①回目に、「ぼくは川」を紹介していますから、これで6篇全部の紹介です。

 

 

3.空の川

 

この川のはじまりはどこ?

リュックかついでさがしに行った

道はけわしい谷間になった

谷間はやがて岩の壁となり

壁には霧が降りてきて

川のはじまりを見失う

その時をごらん! 霧が晴れ

尾根の上にかっきり深い青空

川のはじまりは空だった

 

この川のおわりどこ?

そいつはわけもないことだ

堤防の道をぶらぶら行けば

テトラポッドにかみつく波

白く散らばるかもめたち

 

川のはじまりは空

川のおわりは海

けれどもある日海から雲が噴き上がる

そのあざやかな雲の峰を

いまさかのぼる空の川

 

川の「はじまり」と「おわり」を、と考える眼差し。

川上から川下へという川の流れは、目の前のこと。それを川下から川上へ見つめ直すときに、視野はぐんと大きく、広くなり、スケールが空から海へと。

そして、湧き上がる雲に目を転じ海から空へと川がさかのぼる流れとなっていきます。

「空の川」という題名は、そういうこと。

 

4.水の匂い

 

水が匂う

あたたかくあまく

ふしぎにいつも匂い出す

夕やけの頃には

 

川がとまる

金色のかげと

一緒にどこかへ帰りたい

夕やけの頃には

 

水がくろずむ

音もなく満ちて

小さな波がしわ寄せてくる

橋げたの下には

 

こうもりが飛ぶ

そのかげも黒い

みんながすこし

やさしくなる

みんなにすこし

やさしくしたくなる

 

水が匂う

べに色の雲の

呼んでる声がひびいてくる

夕やけの頃には

 

阪田さんは、見ているものだけではなく、「匂い」にも敏感な詩人。それに「夕方」「夕日」「夕やけ」などにも。(「夕日がせなかをおしてくる」の詩もあるなあ。これらの詩だけでも、実にいっぱい。こういうとき、伊藤英治さんのお仕事『阪田寛夫全詩集』は実にありがたい。1100篇もの詩が載っていて、それらが見出しで調べられるのだから。)

 

『夕方のにおい』というアンソロジーもあります。(タイトルと同名の詩はありませんが)

その中に、「ねこをかうきそく」があり、阪田さん自身がそれを音読しているデータがありました。

すこし関西なまりがあり、温かい声です。

 

 

 

5.「絶対に」は否定の副詞

ここは合唱曲を聴いて下さい。

 

 

 

バケツ一杯のごみを

父ちゃんは気軽にざばっと

川へ投げこんだ

文句言ったら

夜は見えないからいいと言う

みんながよごすからおなじだと言う

言いながらタバコに火をつけて

マッチを棄てた

しまいにはタバコも投げこんだ

あついよう

くさいよう

ごみごみの川からその時声がきこえた

そういえばぼくさっき

キャラメルたべて空箱すてた

こないだなんか死んだネズミを棄てちゃった

ああ   よくないな

反省しちゃうな

夕方はあんなにやさしく匂った川が

今はぶくぶくあぶくを吹いている

痛かったろう

にがかったろう

まずかったろう

なあ 川よ

「絶対に」は否定の副詞だ知ってるか?

今日からはもうぜったいによごさないで

 

それからタケシのうちに行った

タケシもぜっ(*) たいよごさない

と言った

そのいきおいでねじこんだ

とうちゃん とうちゃん

川をよごすは自分をよごすこと

ぼくらはもうぜっ(⁑)        たいよごさないからね

とうちゃんは四の五の言ったが

それでもついにおしまいに

おまえがよごさないならおれも男だ

こんごはぜっ(⁂)                       たい

汚さないからそう思え、と言った

(*注=終わりから11行目*は3字アキ、6行目⁑は9字アキ、2行目⁂は23字アキ)

 

1960年から70年代、高度経済成長のひずみとして公害問題がひろく論議されました。

そうした時代背景のもとで組詩『川と少年』6篇は書かれました。

ぼく(少年)の視点で、そうした汚されている川と、自分のこととして向き合う詩「『絶対に』は否定の副詞」という変わった、けれど、インパクトのある題名の詩です。

 

このあと、最後に川の視点で「ぼくは川」が続いています。

「ぼくは川」だけを読むのではなく、組詩や阪田さんの他の詩も読んでいくという、教材研究の視点が必要だと、改めて思います。

(「ぼくは川」は、光村「国語」教科書の4年生の教材として掲載されています。教材研究の際に、この3回のシリーズ、参考にしてくださいね。)