4年生の光村「国語」教科書に「ぼくは川」が載っています。
ブログでも紹介しています。
これ
↓
昨年友人のYOさんが、4年生の教室で子どもたちとラップ風に歌っていることを知って、うん、なるほどなあと思い、ぼくは、ミーハーなので、2年生の子どもたちとそのノリで読んでみたりしました。(昨年の秋)
美しい歌唱はできないし。
合唱組曲があった「ぼくは川」
この「ぼくは川」は、阪田寛夫さんの組詩『川と少年』のなかの1編です。作曲家の湯山昭さんが曲をつけています。
この目次を見たら、背景に60年代から70年代(80年代も)の高度経済成長期の日本の国土のことを見て取りました。この頃、日本の河川は汚れ、人々の心のあり様と一緒だったように思います。
『阪田寛夫全詩集』でこれらの詩を確かめました。
この河川の状況を憂え、組詩として書かれたのだということを。
こうした背景を知れば、「ぼくの川」の音読も少し違ってくるかもしれません。ここでも「教材研究」は大事です。
湯山昭さんの作曲した合唱した「ぼくは川」の合唱がないかと探したら、ありました。
下の映像の6分30秒からどうぞ。
ぼくは川
阪田 寛夫
じわじわひろがり
背をのばし
土と砂とをうるおして
くねって うねって ほとばしり
とまれと言っても ほとばしり
とまれと言っても もうとまらない
ぼくは川
真っ赤な月にのたうったり
砂漠のなかに渇いたり
それでも雲の影うかべ
さかなのうろこを光らせて
あたらしい日へほとばしる
あたらしい日へほとばしる
この合唱は素晴らしい。曲も、その歌声も。ザ・合唱ですね。
ただ、ぼくは個人的には、あまりピンときません。曲が美しすぎると思ってしまいます。
汚染された川が、自分はそれでも強く生命力を訴えるという詩の背景を思うと、美しすぎるので、違和感を持ちます。
ラップ風のノリの音声表現のほうがいいんじゃないか。それならぼくにもできます。(ピアノは全くダメですしね)
「ぼくは川」の前の詩、「『絶対に』は否定の副詞」は次の記事に書いて紹介します。組詩の背景がよりわかります。
昨夕は玉川上水脇(小平市のたかの台)の幻燈会へ。
次第に暗くなっていくどんぐり林で、「セロひきのゴーシュ」を聞きました。
林の樹木を揺らす風の音、技のそよぎの中、とても豊かな時間でした。
今年の9月21日、花巻での賢治祭に行くんだ、そう暗闇のなかで決意しました。