『にほん語観察ノート』より
5月22日(水)の本ブログで、井上ひさし「お役人の外来語好き」という文章を紹介しました。今回はそれと重なるエッセイ「官僚文章の癖」。
井上さんは、権力というものはしばしば横暴で、ときに暴力をもって人々の思想に介入するものだと考えていた作家であり、それ故、そうした権力の末端に居て威光をかざす「お上」=お役人の体質や実際の姿に物申す人でもありました。
これらは、井上さんの父親譲りの思想性から来ていると言えます。先にそれを紹介しておきます。(本文を紹介する前にね)
父親=井上修吉、小林多喜二(同時代人)、井上ひさし
井上ひさしさんの父親の事を最初に書いておきます。
父親の井上修吉は、「小松滋」という筆名で小説も書いていた人で、農地解放運動にかかわり、前後3回、公安警察に検挙され、最後は拷問されて脊椎を損傷し、そのこともあって亡くなっています。
井上修吉が投稿した「H丸傳奇」が『サンデー毎日』の第17回大衆文藝賞に入選したのは1935年、作家への道が開かれていた矢先の1939年に早逝しました。井上さんが4歳のときです。
亡くなった父親は小林多喜二とその活動、問題に関心を持っていた人でした。二人はプロレタリア文化運動の機関誌『戦旗』の読者であるばかりでなく、その配布もしていました。多喜二の小説はこの雑誌に掲載されました。そして、井上修吉も投稿者でした。当時の社会は、こうした活動に関わることは、危険な事でしたが、正義感はもつ若者たちのその活動を底支えしました。
1933年に29歳の多喜二は特高警察によって、築地書で拷問・虐殺されています。井上さんにとって小林多喜二の死は、父・井上修吉の死と同列のものとして受け止められていました。
小説『一週間』
井上さんが亡くなる前に書いた最後の小説『一週間』。主人公の名は「小松修吉」です。父親のペンネームの「小松」と、実名の「修吉」を重ねています。
物語は、1945年シベリア抑留された男の1週間の物語。と言ってもそこは井上さんだから、冒険物語として展開します。
「井上ひさしさんは、日本人は小松のようにたった一人でも無慈悲な権力と闘う強さを持たねばならないと訴えたかったに違いない。」と江上剛氏(作家)が評しているように、本小説は、父への敬意を示すもの(オマージュ)と言ってよいでしょう。
ミュージカル戯曲『組曲 虐殺』
これまた、生前、最後の舞台(ミュージカル)は『組曲 虐殺』でした。
7年後の再演のときのポスター。
井上ひさしさんが亡くなる前に書いた『組曲 虐殺』は、小林多喜二へのオマージュのミュージカル。(父への敬意もあります。)
心優しい青年が、なにゆえに虐殺されねばならなかったのか。
かつてぼくが書いた文章です。
【井上ひさしの最後の戯曲は、小林多喜二を描いた『組曲 虐殺』だった。
題名にドキリとさせられるけれど、井上にとっては父との思いでにつながり(氏の父は戦前プロレタリア文学の雑誌「戦旗」の配布をしたために、投獄されたという体験をもち、そのことによって死期を早めることになる)、また、ことばと平和という氏のライフワークにつながるものとして、書かずにはおれない作品だった。
ユーモアをもって作品に向き合う井上だから、この作品で描かれた多喜二は、人間としての面白さをもっている。
多喜二は秋田の生まれであった。井上ひさしは山形の出身である。岩手の賢治の言を借りれば、共に「イーハトーブ」(広く言えば東北)の民であった。小学生の時の賢治作品の出会いが、ひさしの作家人生の原点だそうだから、ぼくの賢治への強い関心と重なっている。
また、賢治の病死(献身死と言えなくもない)と多喜二の虐殺による死は、共に1933(昭和8)年である。ひたすら戦争へ向かう時代。ひさしの父もまた同時代を生きた人であった。(ちなみにぼくの父は大正5年生まれ、当時10代の少年だった)
この1年間の「らぶれたあ」では、井上ひさしのことも、賢治のことも、わが父のことも書いた。ぼくにはとても近しい人だからだ。
ここでは多喜二のことをとりあげてみる。
「組曲虐殺」の引用から。
ーーー鉄筆でガリきりをしていた多喜二がつぶやく。
………多喜二、ほどなく鉄筆を擱(お)き、
多喜二……絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる。 なにか鋼のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか。(ピアノが忍び込む)……いや、いないことはない。
多喜二、「信じて走れ」を歌って、自分を励ます。
多喜二
愛の鋼を肩に
希望めざして走る人よ
いつもかけ足で
森をかけぬけて
山をかけのぼり
崖をかけおりて
海をかきわけて
雲にしがみつけ
あとにつづくものを
信じて走れ
間奏ーー多喜二、原紙を慎重に謄写版器のスクリーンにセットする。そして、
二番へーー
愛の鋼を肩に
星をめざして走る人よ
いつもひたすらに
ワルをうちこわし
ボロをうちすてて
飢えをうちはらい
寒さうちやぶり
虹にしがみつけ
あとにつづくものを
信じて走れ
あとにつづくものを
信じて走れ
(集英社「組曲虐殺」井上ひさし より、2010.5)
井上さんは、自分の父や多喜二たちを自分の生き方の根底に置いていた、そのことが伝わります。
前置きに走りすぎました、ワルイクセ
おっと、前置きが長くなりました。ぼくが書こうと思ったのは、父親のことではありませんでした。井上ひさしエッセイに込められた「お上のおかしさ」への批判のことでした。「官僚文章の癖」というエッセイのことです。
エッセイの文章は、茨城県東海村で起きた「臨界事故」についての提言を素材にしたものです。
(*臨界事故とは、1999年9月30日に起きた、東海村にあるJCOでの原子力事故。被曝による死者2名、負傷者1名、被曝者667名も出した)
このことへのお役所の事故総括とその提言をとりあげ、お役所(官僚文書)の癖を検討したものです。
4つの特徴を導き出していますが、これは、今の官僚文書でも全く同じだと思います。
この間の中教審や学習指導要領などの文言を読む――苦痛!―ときにいつも感じることです。
ぼくは、学校というお役所の末端で仕事をしていたので、以下に、井上さんがあげた「官僚文書の癖」については、しばしば辟易していました。
①漢語を多く使う――たしかに漢字には意味を押し縮めて、文の恰好をすっきりさせる作用がある。ほどよく使うならこれぐらい重宝なものはない。しかし「ほどよく使うこと」が大切。そうしないと意味が押し合いへし合いして、かえって意味がわからなくなる。…お役人がどうして漢字を多用したがるのは、たぶん堂々たるところを見せたいから。おごそかで、いかめしいところを見せたいのだ。
②カタカナ英語を多く使う――カタカナ語の大事さはあるけれど、「 」をつけて使い、役所は率先して日本語訳をつけたらいい。「リスク」を「事故発生の割合などと。でも彼らがそうしないのは、役所の文書がわかりやすいと困るから。
③造語を多く発明する――このことで、物事を面倒にしている。
④独特の言い回しを多く使う――句読点を省略して、ずらずら文を並べて、なるべく意味が取りにくくする。…とにかくお役人たちは、分かりやすい文章を書くまいとしてがんばっている。
<自分たちにはわからないということを隠すためにいっそうむずかしく表現して国民を煙に巻き、一方、分かり切ったことをわざわざむずかしく表現して、みんなを面倒がらせ、それによって自分たちを堂々として、おごそかで、いかめしい存在に見せたがるひとたち>―これが井上ひさしさんの描く日本の官僚たちの精神像の素描です。
井上さんがあげたかつての例ではなく、このところに官僚やそのそばのひとたちの文章で見てみます。
教育に関わる学習指導要領、その解説。更に、ついこの間の中教審での文書もまた同じだと、改めて感じたものです。
「学習指導要領」の解説の文章より。
この中に「各学校におけるカリキュラム・マネジメントの推進 」という項目がありました。それは以下です。
各学校においては,教科等の目標や内容を見通し,特に学習の基盤となる資質・能力(言語能力,情報活用能力(情報モラルを含む。以下同じ。),問題発見・解決能力等)や現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力の育成のためには,教科等横断的な学習を充実することや,「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を,単元や題材など内容や時間のまとまりを見通して行うことが求められる。
これらの取組の実現のためには,学校全体として,児童生徒や学校,地域の実態を適切に把握し,教育内容や時間の配分,必要な人的・物的体制の確保,教育課程の実施状況に基づく改善などを通して,教育活動の質を向上させ,学習の効果の最大化を図るカリキュラム・マネジメントに努めることが求められる。
このため総則において,「児童や学校,地域の実態を適切に把握し,教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと,教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと,教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくことなどを通して,教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の 質の向上を図っていくこと(以下「カリキュラム・マネジメント」という。)に努める」ことについて新たに示した。
中身以前に鎧で固めたカチカチの漢字、漢語の羅列。それに一文が異様に長い。これだけで3文。ひゃ~、一読して何について書いてあるのか、先ず分からない。分かろうとする前にイヤになる。
小学校教育をこういう風に変えて行きます、そうした文章のはずだけれど、中身にたどり着く前に読む気が失せていきます、ぼくは。
カリマネ?カリフラワーにはマヨネーズ!
でも、これでやるぞと、水戸黄門の印籠の様に上から降りてきて、伝達講習やらが繰り返されて、「ここが重要です」との説明によって、赤線を退く場所も指定される。
そうすると、大部分のマジメな人でも、「早く終わらないかなあ」と思い始めて、結果としては「今後はカリキュラム・マネージメントやらが大事らしい」ということだけを覚えて、フツーに「カリマネね」と使いだします。
現場でその「カリマネ」と聞いた時、浦浦島太郎状態のぼくは、「???」でした。(不埒にも「給食にカリフラワー?それにマヨネーズ?」なんて思ってしまいました。)
個別最適化って?
更に「コベツサイテキカ」という言葉も、今の中心「トレンド」(傾向)です。漢字にすると「個別最適化」。「一人ひとりを大事にして、学ぶ内容や、学び方を子どもたちにとっていいものにしましょう」ーーこれって、教師としてずっと考えてきたことです。「個別最適化ーーコベツサイテキカ」と、ことさらに言い替えるとき、なにやら従来からのやり方ではもうダメですと宣告されている気分になります。
学習指導要領の総則の解説文書より
「人工知能(AI)、ビッグデータ、Internet of Things(IoT)、ロボティクス等の先端技術が高度化してあらゆる産業や社会生活に取り入れられたSociety 5.0時代が到来しつつあります。」とか「令和元年度からGIGAスクール構想により、新たな学校の「スタンダード」として、小学校段階から高等学校段階において学校における高速大容量のネットワーク環境の整備を推進するとともに、令和3(2021)年度からはほとんどの義務教育段階の学校において児童生徒1人1台端末環境での学習が開始されることとなります。
我が国の学校教育におけるICTの活用は国際的に大きく後れをとってきました。
こうした文書を読むと、黒板を使い、こどもたちと直に声を交わしあい、ときには川原でころげまわった体育もどきの授業、冗談交じりに学んだ教室の日々は、いまや時代遅れどころか犯罪的なことであると宣言されたような絶望的な気分にさえなりました。
立派な(?)文言の一方で、担任の先生がいなくて、そのために3クラスを2クラスに戻して1学級定員を40人に戻すとも言います。(自分もこの年齢でジサマセンセイをしました)
もう子どもや仲間といたいなら、<人工知能(AI)、ビッグデータ、Internet of Things(IoT)、ロボティクス等の先端技術が高度化してあらゆる産業や社会生活に取り入れられたSociety 5.0時代>や<GIGAスクール>なんて場所には、とてもいられないだろうなあ。
ひとがひとと関わることが基本。そのうえでのICT化でしょうにねえ。
「対話的・主体的で深い学び」もまた大切なスローガンです。これも反対することでは無いけれど、「・」の意味はとか、「で」ってということに振り回されている現場での実情があります。「協働学習」もまた強く打ち出されていますが、その前提として結び付けられるICT。
ことばは大事。けれど、ことばに振り回される主体性のない、つまりおかしなことをおかしいと言い合い、面白いことをトコトン追求してみる、友らと語らりあう場所をつくることから始めるしかないよね。
(明日は学びをつくる会、1時30分、国立駅北口下車5分、ひかりホール)