先に紹介(5月18日)した「赤ちゃんの名前」を書いた井上ひさしさんの『にほん語観察ノート』は、2000年頃出版された本だから、ずいぶん以前の本だと言えるかもしれません。しかし、そこに書かれていることは今でも大事な問題提起になっていると思って読みます。

 

その中から、今回は「お役人の外来語好き」という文章を読み、ここで指摘されていることは、今でも十分通じることだと思いました。

 

その中身はおおよそ次のようなことです。

 

井上さんは、1999年1月の文化庁の日本語に関わる調査の事から書きだします。

「スキーム」という外来語のことばについて、2200人の94.1%までが「わからない」とする調査です。

 

<役所の白書によく出てくる、スキーム、コンセンサス、アカウンタビリティーといった外来語よりも同じ意味の日本語の計画、合意、説明責任の方がわかりやすいと、9割の人が感じている>

 

それでも、なぜ、お役人は、和語や漢語ではなく外来語を多用するのか。外来語がお好きなのか。

 

井上さんは、

<いかにも偉そうに仕事してますというので使うのだ、そういう意地悪な見方は、自分はしない>

といいます。善意に解釈したい、と。ちょっと皮肉もあるような。

 

お役人たちは、今でも、明治期の「清新な思想には清新な語法が必要である」(岩野泡鳴)という先人たちのことが頭にあって、「われわれもちゃんと仕事をしなければならん」という覚悟で、外来語まで持ち出して努力をしているのかも。

たぶん彼らが外来語をつかいたがるのは、たぶん自分たちを励ますためなのだ。

 

とも。

 

井上さんは、このお役人たちの外来語になびく心根を批判するために、日本語の語彙の三層構造を紹介します。以下のようなことです。

 

語彙には「和語ー漢語ー外来語」があり、例えば「ためしー試験ーテスト」「わざー技術ーテクニック」「きまりー規則ールール」とあります。

 

「スキーム」については、「くわだてー計画ースキーム」です。この「スキーム」自体が、変遷してきました。

 

<プランーデザインープロジェクトースキーム>。こう呼び名が度々変わるのは、何を企てても上手く行かないからで、しくじるたびに言い換えて来たからです。

さらに、この外来語を使いたがる癖の、その底にあるのは、ある種のインテリ趣味、それもじつに独りよがりで度し難いインテリ根性です。>

 

そして、次のように結論付けます。

 

<芸術家や思想家が外来語を使うのは構いません。理解する人が少なくてもよいという覚悟が彼等にはできているからです。>

 

<しかし、お役人はちがう。芸術家や思想家を気取っちゃいけない。…納税者全員に関わりがある…そういう市井の人びとに理解できない言葉を使って、いったいどうしようというのでしょうか。

 

善意の筆者である自分(井上さんのこと)は谷川さんの次の言葉を贈って、お役人に注意喚起しています。

 

谷川俊太郎さんのことば

<詩人であるわたしのつとめは、すべての言葉を、われわれの「からだ」と「暮らし」に根づいた言葉に、どうしたらできるかである。>

 

もしも何かに言い換えたいなら、それらを和語と漢語で言えないか、うんと工夫することそれお役所の仕事です。

 

そして、最後にこう書きます。

 

<もしもなにか言い替えたいなら、それを和語と漢語で言えないか、うんと工夫することそれがお役所の仕事です。>

この「お役所の」というところを、ぼくは「学校の」「教師の」と言い替えて読みました。学校というところもお役所の末端にあり、往々にして外来語を使って現場を煙に巻くことが度々あったからです。アクテイブラーニングなどその代表だと思いますね。

その外来語、結局、上手く行かずにいつの間にかなくなっています。

今、さかんに使われる「ギガスクール」「ソサイエティ5・0」とか無頓着さを強く感じます。それらの言葉がどうなるか、ことばを大事にしない結果は、実態のない言葉の氾濫によって、内実が空洞化するだけでしょう。

 

ところで、昨日のブログで紹介した谷川さんの詩、『いまとむかし』が、心にすっと届くのは、すべての言葉を、われわれの「からだ」と「暮らし」に根づいた言葉に、どうしたらできるかということに徹して書いているからです。違和感のないことばは、すっきり伝わります。

 

この谷川さんの本で、もう一つ同じ問題意識で読んだ「官僚文書の癖」というエッセイのこともつぎに紹介しようかな。