昨日は全生園のなかを歩きました。近くの青葉小学校の教員の方たちを案内するためです。
桜の中を歩く時、喜びと同時に哀しみも感じます。この場所は100年以上、多くの人が「閉じ込められた」人生を送った場所だからです。
1時間ばかりの散策にちかい案内ですから、ハンセン病資料館見学と併せ、ゆっくり案内したいと思いました。
青葉小は、人権教育を重視してきた歴史があります。園内には、青葉小の子どもたちが植樹した樹があります。楓の木、桜の木(陽光桜なので、もう葉桜でした)。

ソメイヨシノです。

 

 

青葉小の子どもたちが植樹した陽光桜についてはかつて以下のような写真をアップしています。

 

3月中に咲いた陽光桜。ピンクの色が強い花。

「陽光桜」には、こんな歴史があります。

<高岡正明は第二次世界大戦中に学校教員であったが、戦後、戦死した生徒たちの冥福を祈って各地に桜を贈ることを思い立ち、環境適応能力が強いサクラを作出すべく、25年の試行錯誤の後に、寒さに強い日本のソメイヨシノに由来を持つアマギヨシノと台湾もしくは日本の暑さに強いカンヒザクラを交雑させて誕生させた。>(ウィキペデイアより)

 

このことは映画にもなっています。笹野高史さん主演です。2015年。

 

時間が足りないので、あらかじめぼくが書いた文章をプリントしして渡しました。「後で読んでくださいね…」

青葉のみなさん、この後、学校に戻って「会議」だって。食事処の「なごみ」でお茶する間もないんです。

 

《資料》

「知らないことは罪である」という思い(その1)(「文京の教育」)

         ―ハンセン病問題と私

                 霜村三二(元公立小教員・元都留文科大学非常勤講師)

若者をどう見るか

 私は、教師になろうという若者たちの支援を続けています。かつて勤務校の教室にはたくさんの学生たちが訪ねて来ました。その若者たちは、教師になろうという希望の一方で不安を抱えていました。'

 いまは教員養成の現場で大学生に寄り添う支援を続けていますが、教職への不安は年々大きくなっています。人格まで管理され、精神の自由を奪う教職イメージが強いからです。

 本来、教育は自由であり、創造的であるべきだと考えてきた私は、不安にとらわれ、教職を選ばぬ若者に対してどう関わるか考えてきました。保守的であり、自分の問題関心以外はしらける、また身内でだけ盛り上がるなどと見る若者観があります。しかし、それは表層的な見方です。私が関わる若者たちは、正義感にあふれ、他者への関心も強く、自分の問題関心を極めようという気持ちもあります。

 ただし、同調圧力の強い中で空気を読むことにも痛々しいほど気を配ります。そんな若者たちが殻を破って行くには、学びこそ重要です。若者の魂に届く学び甲斐のある教材は何か、その選択こそが最も問われています。(これは、小学生であっても同じです。)

 

ハンセン病との出会いを

 ハンセン病に関する学びは、若者や子どもたちの真っ当さ取りもどす学びであると考えます。日本社会においてハンセン病問題ほどひどい人権問題は無いにもかかわらず、その事実はほとんど知られていないこと、元患者の方たちの平均年齢は85歳を越えており、いまそれを知るにはギリギリのところあること。そこで、私は「知らないことは罪である」という厳しいことばを使い、若者たちの学びをつくっています。

 以下の授業記録は、小学6年生の子どもたちの学びです。大学生でも同じことを学んできました。

 

授業観を変えた詩 『指』森春樹との出会い

 偏見や差別の根は深いものです。誰もが「偏見に基づく差別はよくない」と言います。しかし、それはタテマエだけになってはいないでしょうか。自分のことに置き換えてみる切実な体験・経験があれば、少しは克服できるでしょうが、それらは限られています。だから`最も必要なことは「学ぶこと」と「考えること」でしょう。それによって、経験や体験を超えられます。

 私にとっての「学ぶことによってのハンセン病問題との出会い」は、教師になって8年目の教室での学びがきっかけでした。子どもたちとの日々は楽しいものではあったけれど、6年生の学習はこれでいいのか、自分なりの実践のスタイルを探しあぐねて、迷い、悩んでいました。その中から、漠然としたものでしたが、手応えを感じ始めていたのが「詩を読む」ことでした。様々な詩をまずは自分で読み、その中から子どもたちと共に読む詩を選び、授業にかけました。

 他者への無関心や、投げやりな雰囲気が教室を覆う状況もあったので、『指』(森春樹)を子どもたちに出会わせたいと強く思いました。

 子どもたちはハンセン病のことなど何も知らないかもしれない。作者の凄まじいまでの想いが伝わるだろうか。この病のことを説明して“わからせる”のではなく、あくまでも「表現」に目をとめて深く読むことを通して“感じる”授業はできないだろうかと。  

 

病を見つめる作者の目

     指

               森 春樹

  いつの日から か

  指は

  秋の木の葉のように

  むぞうさに

  おちていく。

 

  せめて

  指よ

  芽生えよ。

  一本、二本多くてもいい。

  少なくてもいい。

  乳房をまさぐった

  彼の日の触感よ。

 

  かえれ

  この手に。

   (真壁仁編『詩の中にめざめる日本』岩波新書より)

 

私の読みを

 授業のための私の読みです。森春樹は岡山県の長島愛生園で生を終えた詩人です。

『指』は自分の中で進行する病を凄まじいほどに凝視する作者の生き方の中から生まれた詩です。作者はハンセン病に冒され、末端の神経から朽ち果てていくように少しずつ病がすすみます。ハンセン病は、末端の神経を失うので指先などの傷があっても気づくのも遅れ、指先などを失う人、失明する人も多く、顔面の皮膚の崩れも目立ちます。表面に病が見えるので、人々はこの病を恐れ、患者は差別の中で絶望して生きざるを得ませんでした。

 絶望の中で生きてきた作者の精神は強靭です。絶望の深さは、私たちにはとうてい理解できません。しかし、この詩をよむと、絶望の底から希望=生きることへの意志を見出した作者の生き方に強く打たれます。

 1行目の1字の空白。連の空白。作者の絶望の日々を感じます。「おちていく」と自分のことなのに、客観的に目の前で進行するものと表現します。冷徹なほどの目です。「いった」というような過去形表現をとらず、現在形で書くことにより、むごいことがこれからも続くのです。

 指が戻るなどはありえない、「かえる」ことなどない。それでも、作者は言わずにおれない。「木の葉」の比喩、赤ん坊の頃の瑞々しさとの対比は、イメージを鮮明にします。

 倒置法の「かえれ/この手に」にも強い思いがあります。

 

ことば、表現から読み解いていく

 子どもたちはこの『指』に出会ってはじめは戸惑いました。「指がおちる」?「乳房をまさぐる」?まったく変な詩だ。いったいどうしたのか。作者はなんて奇妙なことを書くのだろう。私の予想したとおりでした。

 しかし、子どもたちは、ことば、表現の一つひとつを詳しく検討していくうちに作者の切実な想いを読み取っていきました。

秋の木の葉のように/むぞうさに/おちていく>という比喩表現のなかから、青々とした、生き生きとした、瑞々しい<若葉=指>が、生気のない、朽ち果てる<もの>に変わっていくイメージを読みました。<彼の日>とは幸せな赤ん坊のころだったと読み解いた子どもたちは、赤ん坊の指と<おちていく>指を対比させて考えていくなかで、作者自らの身体に進行していく病の無残さを見つめました。ことばと表現に向き合って読み取った子どもたちに、作者の病がハンセン病であることを伝えました。

 この授業は私にとっても、学びとは何かを考えるヒントに満ちたもので、その後の授業を変えるエポックになりました。

 

(尊厳回復の碑・胎児標本を慰霊する)(慰霊堂・亡くなっても故郷に帰れなかった)

 


(春には桜が咲き乱れる全生園は隠れた桜の名所でもある)

 

 

「知らないことは罪である」という思い(その2)(「文京の教育」)

人間としての尊厳―舌読

 全生園・ハンセン病資料館(東京・東村山市)に歩いて3分のところに住む私は、散歩の途中や通勤の際にも幾度となくここを通過し、訪問してきました。そして、各地から訪ねてきた二百人を超える人を案内してきました。

 園内のどの場所にも、ここで暮らしてきたハンセン病者の思いを感じますが、資料館を訪問する度に、毎回、しばし立ち止まってしまうのはこの写真の前です。

 

「舌読」。ハンセン病者は、末端の神経を冒されるため、指先の神経や視力をなくした方が多くいました。指先を失い、感覚もなくしたときに、この舌読によって知識や情報を得ます。

 末端の神経が唯一残る舌先。舌読を身に付けるために唇は血だらけになったそうです。写真を見る度に、困難な状況下でも懸命に知識を求める人間としての生き方と尊厳に心震えます。

 

人権への罪

 本来感染力も弱く、強制収容する必要も無かったハンセン病患者。治療法の確立が遅れたために、明治期の近代化の中で隔離が法の名で始められました。

 さらに、国の戦争体制の確立のために終生隔離が強力に徹底的に推し進められました。あたかも囚人のような療養所生活。入所を拒むことなどできません。待遇の過酷さに声をあげ改善を求めた患者たちは、罪人のように監房に入れられました。そのことで、命をなくした人もいました。病い故に、人間の当たり前の生き方が否定されました。大人でも子どもで容赦なくハンセン病者の願いはことごとく踏みにじられ、愛する人たちから引き離され、断種・堕胎も強いられました。研究のためとして妊婦から強制的に取り出された胎児は、母親たちに知らされることなく、ホルマリン漬けにして密かに保管されました。    

 「標本」というおぞましい名で。全国で3000体以上の子どもが生まれることを許されず、隠されていた胎児標本114体が2005年になって発見されています。

 

「知らない」でいいのか

 生涯を強制的に隔離されるという差別。負の歴史。しかし、生きることへの絶望の中から、それでも立ち上がった人たちがいたこと。人間の肯定。それを、自身が学び、それをもとに子どもたち・若者と学びたいと思いました。

 

 1947年日本国憲法の成立後、さらに治療薬の発見もあって、治る病になったにもかかわらず、その差別は基本的に継続し続けました。(2001年の国家賠償請求訴訟裁判判決出るまで)

 刷り込まれた偏見は簡単に克服できないこと。ハンセン病者には憲法の基本的人権の保証が及んでいなかったと言う事実。「法のもとの平等」は絵に描いた餅にしてはならないことをここでも学びます。憲法理念は12条に書くように「国民の不断の努力」を求めています。「不断」とは絶え間なく、切れ目なく続くと言う意味ですが、ここは「普段」(=普通に、いつでも変わらないこと)に実体化しなくてはなりません。人権への罪は、いつの時代も形を変えて普通の顔をして現れるのだから。

 いまも教育の場で「指導」という名の様々なハラスメントが横行してます。体罰・強制・圧力・いじめ・差別。こうしたものに対して、人権の大切さが声高に言われても、それがタテマエに終われば意味はありません。学びは実感する、共感するものへ切り替えねばなりません。

 

 我がこととして考える

 ハンセン病問題は多岐にわたりますが、ぼくは教育の面から考えることを大事にしてきました。それは、ぼくが教師であったからですが、もう一つ理由があります。

1955(昭和30年)に起きた「黒髪(小学)校事件」と呼ばれたハンセン病者の子ども入学拒否事件。親がハンセン病者という理由のみで「未感染児童」(未発症児童をこうやって差別しました)の小学1年生4名が入学を拒否されました。その事件の一方の当事者として伯父が深く関わっていたからです。

 PTAの親たちの多くが親のハンセン病を理由に「未感染児童」と呼んで入学を阻止したとき、伯父たちは、人の子の親として、憲法理念から、さらに科学的知見からも、敢然として入学賛成の声をあげました。その代表者が伯父であった事事を調べるなかで知りました。いまから60年も以前の封建的な九州・肥後のことです。(我が故郷は肥前・佐賀。保守性、後進性では肥後・熊本に劣りません、残念ながら)

(*写真は校門に貼られたPTAからの紙。「黒髪校同盟休校決行」「らいびょうのこどもと一しょうにべんきょうをせぬように(ママ)」の文字がある)

 

 その時代に、この地で差別事案を許せないと奮闘した伯父に誇らしさを感じながらも、気にかかったのは教師たちがその時にどう振る舞ったかでした。

 熊本の教育界のなかで、小学校から大学までの(伯父は大学教員でした)教育関係者の多くが、ごく一部を除いて全く声をあげなかったこと(伯父はこれを「熊本教育界の一大汚点だ」と書いていました)を知って、教師という仕事の意味を突きつけられました。

 私だったら、どうしたか。何が出来たか。誰のために、何のために、教師はその仕事をするのかと。

 子どもを守らず、保身に走り、沈黙するのでは、教師の仕事の意味を見失います。これは今にも通じることではないか、と。

 教師の仕事は、「献身性」によってその“権威”が保たれている面がありますが、これは両刃の剣でもあり、そのことが“ブラック”な学校状況や勤務を引き込んでもいます。また、子どもとの「指導―被指導」関係に見られる権力性も持っている割に、教師自らは権力に弱い面もあります。

 「黒髪校事件」に見られたのは、当時のPTAなどの保守的な勢力に、ほとんど声をあげられず、また自らの課題として考えることを放棄した教職関係者の閉鎖性だったのではないか。今に通じる重要な課題だと思っています。

 ハンセン病患者だった方たちの平均年齢が現在87歳を越えようとしています。あと10年もすれば、ハンセン病患者問題は“消滅”してしまうでしょう。けれど、元患者の方がいなくなっても、私たちに突きつけられた問題は何も解消してはいません。これは自分たちの問題として学んでいく課題です。