「ふきのとう」④くどうなおこ
『ふきのとう』
~~冬から春への終わりの物語です。
根雪の残る竹やぶの中。雪の下の土のその下にはふきのとうが隠れています。芽吹きたい、そう願うふきのとうは、春風、竹やぶ、お日さま、雪の手伝いで顔を出します~~
「ふきのとう」と「春」
この話をイメージしながら読みます。漢字学習もこの物語の読みの中で始めます。
「これは何だろう?」
「葉っぱだよ」、「草の芽だ」
(A)→(B)→(C) と展開します。
漢字はものの形からできていること(象形)を意識させます。
(C)の形は、草の芽が野原にいっぱい出てきたことです。
「草の芽や木の芽がいっぱい出てくるためには、何が必要だろうか。」
そういいながら、絵を描きました。
「お日さまだ!」
「『春』という漢字のなかには、『ふきのとう』の話と同じ中身がつまっているんだね。」
温かいお日さまの光を浴びて、草や木の芽がでてくる、そんな季節からできた漢字が「春」です。
1年生では80字の漢字を学びます。(ということに「指導要領」で決めています)
2年生になると、それが一挙に160字、二倍にもなります。
そこで、現場では、毎日まいにちの練習でこれらを定着する、それが当たり前とされています。
筆順も、語句づくりも、サッと終わらせ、「春の字、10回練習ね」、「宿題は漢字ドリル」というものです。
けれど、これでいいのでしょうか。大量の漢字嫌いをこうやって作っているのではないか、ぼくはそう思ってきました。
「練習中心の漢字学習」からの脱却は、ぼくのずっと抱えてきた課題でした。
実際の教室での学びの中で、どうすればいいのかが次第に見えてきました。
たとえ基礎的なことであっても、いや、基礎的なことであるからこそ、訓練によって機械的な定着を図ってはいけないのだと。訓練によって定着するものは、次の問いにはつながらず、受動的な学びになります。
先人たちの知恵が詰まった漢字を機械的に学習するだけでは、面白さは感じられません。表意文字である漢字は、「文化を学ぶ」という文脈の中で学ぶとき、面白さも感じ、意味も分かっていきます。つまり知的な学びになっていきます。
だから、効率ばかりを求めず、少し時間はかかっても、漢字の不思議に触れるような学びを進めたいと思います。言ってみれば発見のある学びでしょうか。
「三ちゃんは ゴリラじゃないよ!」
もちろん、定着は意識します。一定の練習もしますが、機械的にはやりません。
筆順のきまり、合理性を踏まえ、言葉としての定着を図ります。「春」という字が書ければいいというものではありません。
例えば、「春」はこうです。
子どもたちは、ぼくを「さんにゴリラ」と言っていたので、ならば、こう返します。
「なに?さんにゴリラ?三ちゃんは 人ですよ お日さまにちかって!」
さあ、立って!大きく手を振って、唱えながら空中書きです。