このブログでも、これまでハンセン病問題に関して、様々に記事を書いてきました。
「ハンセン病資料館」というテーマで200回以上です。
こんなにも‟熱心”なのはどうしてなのか。
以前に『文京の教育』誌に求められて書いた文章があります。ここに自分の関わりの原点について触れています。
我がこととして考える
ハンセン病問題は多岐にわたりますが、ぼくは教育の面から考えることを大事にしてきました。それは、ぼくが教師であったからですが、もう一つ理由があります。
1955(昭和30年)に起きた「黒髪(小学)校事件」と呼ばれたハンセン病者の子ども入学拒否事件。親がハンセン病者という理由のみで「未感染児童」(未発症児童でもありません)の小学1年生4名が入学を拒否されました。その事件の一方の当事者として伯父が深く関わっていたからです。
PTAの親たちの多くが親のハンセン病を理由に「未感染児童」と呼んで入学を阻止したとき、伯父たちは、人の子の親として、憲法理念から、さらに科学的知見からも、敢然として入学賛成の声をあげました。その代表者が伯父であった事を黒髪校事件を調べて知りました。いまから60年も以前の封建的な九州・肥後のことです。(我が故郷は肥前・佐賀、保守性では劣りません、残念ながら)
(*写真は校門に貼られたPTAからの紙。「黒髪校同盟休校決行」「らいびょうのこどもと一しょうにべんきょうをせぬように」の文字がある)
その時代に、この地で差別事案を許せないと奮闘した伯父に誇らしさを感じながらも、気にかかったのは教師たちがその時にどう振る舞ったかでした。
熊本の教育界のなかで、小学校から大学までの(伯父は大学教員でした)教育関係者の多くが、ごく一部を除いて全く声をあげなかったこと(伯父はこれを「熊本教育界の一大汚点だ」と書いていました)を知って、教師という仕事の意味を突きつけられました。
私だったら、どうしたか。何が出来たか。誰のために、何のために、教師はその仕事をするのかと。
子どもを守らず、保身に走り、沈黙するのでは、教師の仕事の意味を見失います。これは今にも通じることではないか、と。
教師の仕事は、「献身性」によってその権威が保たれている面がありますが、これは両刃の剣でもあり、そのことが“ブラック”な学校状況や勤務を引き込んでもいます。また、子どもとの「指導―被指導」関係に見られる権力性も持っている割に、教師自らは権力に弱い面もあります。
「黒髪校事件」に見られたのは、当時のPTAなどの保守的な勢力に、ほとんど声をあげられず、また自らの課題として考えることを放棄した教職関係者の閉鎖性だったのではないか。今に通じる重要な課題だと思っています。
ハンセン病患者だった方たちの平均年齢が現在87歳を越えようとしています。あと10年もすれば、ハンセン病患者問題は消滅してしまうでしょう。けれど、元患者の方がいなくなっても、私たちに突きつけられた問題は何も解消してはいません。自分の問題として学んでいく課題です。
この時のリアルな状況をつかめる文書があります。伯父・蒲池正紀が語ったことばがそのまま残っているのです。かつて菊池恵楓園の資料館を訪ねた時に見つけた写真。
昭和30年(1955年)1月29日に行われた「黒髪校問題の真相を県市民各位に訴う「真相発表大会」の案内ポスター。
ここでの、伯父・蒲池正紀の演説全文を再録しています。賛成派(子どもたちを入学させるべきだという意見)の代表としての全面的な展開をしています。
ハンセン病問題、黒髪校問題とは何か、これを読むとよくわかると思います。連絡くだされば望む方に全データを送ります。
→東京の中学校社会科教師だったTさん(都留文大で、講師として一緒に働いていました)にこの資料を送りました。早速、以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。
黒髪校事件の貴重な資料を送ってくださり、ありがとうございました。
一気に読ませていただき、当時の教組も“現場尊重”を口実にして重大な差別を傍観し、事実上差別に加担したことに衝撃を受けました。まったく知りませんでした。三二さんの伯父様の孤軍奮闘(良心の叫び)に心から敬意を表します。伯父様は三二さんの誇りですね。
確かにぼくの誇りです。ぜひ読んでもらいたいです。