(再び「たぬきの糸車」をタンテイする読みを書き続けていますが、他のこともブログ投稿しようとおもっての記事です。時間の許す方は、ゆっくり読んでください。)

 

正月からずっと石川、能登半島ということばがあふれています。

確かに、能登半島地震後の被災地の様々な映像、画像、さらにレポートなどに触れるたびに、当地の人々の辛い日々を思います。

季節として春はまだまだ先のこと。画面から見る北陸の冬の鈍色(にびいろ)の空が、重苦しい気持ちを更に大きくします。

 

ぼくにできることは何か、いくらかの支援金をするくらいなのですが。

 

    雪の結晶  雪の結晶  雪の結晶    

 

これまでに能登半島に行ったことは無いけれど、懐かしい気がするのは、石川さゆりさんの「能登半島」(阿久悠・詞/三木たかし・曲)をかつて聴いていたからでしょうか。

あれは19歳の時の石川さゆりさんの歌。19歳の時に、それまでのアイドル路線から切り替えて、演歌の曲「津軽海峡冬景色」がヒットした後でした。

 

歌詞(阿久悠)の中にもあるように、「十九なかばの恋知らず」「十九なかばで恋を知り」「夏から秋への能登半島」だったのだなあ。

阿久悠さんは、石川さゆりさんへ「今度はあなたの故郷の歌ね」と言って、青森の歌(「津軽海峡冬景色」)の次にこの歌(石川の歌)を書いたというちょっと笑えるエピソードがあります。石川さゆりさんは「石川県」ではなく、熊本県の出身。その翌年、20歳の時に「火の国へ」(熊本は阿蘇山があり火の国の別称もあります)を歌っています。

 

ユーチューブには、19歳の石川さゆりさんの歌う映像があります。2番はその後大人の歌手になった(?)映像です。

 

 

若いときの声は、声質もカタい感じがします。大人の石川さゆりさんは、声を張るのではなく、声をそっと置くように歌っています。たとえば「胸の奥で何か 急にはじけたよホウ」と。なるほどねえ。

 

石川さゆりさんの面白い一面が見られる映像がありました。往時のタモリの番組での映像です。1991年11月。34歳。石川さゆりさん最初の歌を作曲したのは猪俣公章さんの曲。

おもしろい。

 

 

「寅さん」の映画をみて、それがわかるには、年齢と経験が必要だったんですね。

 

ここで止めればよかったのに、もう少し調べているうち、お宝ともいうべき映像を見つけました。水上勉さん、筑紫哲也さん、弦哲也さん、石川さゆりさんの4人が炉端で語り合う映像。いくつもの素晴らしい、何気ない歌を聴きました。

冬の夜、聴いていてじんわり…しました。

ちなみに、「天城越え」は弦哲也さんの曲。

 

 

自然さがとてもいい。服部良一の名曲「胸の振り子」。

演歌が嫌いだったという筑紫さん、だけど、それでも歌う小畑実の「勘太郎月夜唄」。

戦後の名曲、「港の見える丘」。 

淡谷のり子「別れのブルース」淡谷さん、何が演歌がキライか、と筑紫さんが笑っています。

筑紫さんがいま居てくれたらなあ。

永六輔さん詞、いずみたく曲「女ひとり」もいいなあ。永さんももういない。

日本酒飲みながら。そうだ、日本酒飲みながら参加してるつもりでもう一度聴こう。

 

これも聴いてください。弦哲也さんの自作曲。沁みます。ギターと歌「与作」。それに「親父」。

 

しんみりした夜になってしまいました。