松本案件について、推移は明らかに松本氏、吉本側に不利に動いています。

どうしてか。それは、今回の文春記事になったような事案は、松本氏や吉本芸人の中に「ありふれている」と思えるからでしょう。

ヤンキーや悪党ぶりを面白がっている言動は数多くあったからです。

 

コラムニストだった小田嶋隆さんは、松本問題につながることについて書いています。

2020年6月13日の以下の記事です。(小田嶋さんは2022年6月24日に亡くなっています。ぼくはコラムの大ファンだったので残念至極です。)

 

ただし、この文章は《「日経ビジネスオンライン」で連載中の「ア・ピース・オブ警句」のコーナーのために、2010年の7月に書いた原稿》です。

小田嶋さんがここで指摘していること、今回の松本案件を考えるうえで、ものすご~く参考になります。まるで予言の書かと思ったほどです。

 

 

<コラムの途中からです。小田嶋さんがみたテレビ番組のことからです>

     キラキラキラキラキラキラキラキラキラキラ 

・番組はフジテレビ系列で6月26日に放送された「人志松本のすべらない話」。そこで紹介されたエピソードのひとつ。
・話し手は千原ジュニアという吉本興行所属の芸人(以下単に「J」と表記)。
・話題は先輩芸人であるキム兄こと木村祐一(以下、単に「K」と表記)の行状。
・Jは「もう十数年前の話」「時効みたいなこと」と、事前に「時効」である旨を強調。
・ある夜、KとJは女性を含めて食事をしていた。
・一行は、「ええ感じになって」Kが当時一人暮らしをしていたマンションに行くことになった。
・「お互い大人ですから」「深夜の一時二時に部屋にあがるワケですから」と、JおよびKはそう判断していた。
・ところが、いざとなると女性は「そんなつもりで来たんじゃない」と言い出す。
・「それ以外何があるんですか?」と、Jはスタジオの人々に向けて訴える。笑いが起こる。
・「これは、K兄切れるでぇ」と思って見ていると、果たしてKは「鬼の形相を通り越して素の顔になって」冷凍庫から何かを取り出している。
・取り出したのは「カッチカチに凍った鶏肉のカタマリ」。
・Kは「これはいらんトリニクやから捨てるだけやで」と言いながら、玄関でハイヒールを履こうとしている女の子の足元に向かって冷凍肉を投げつける。
・肉は、玄関で「コココココーン」と跳ね返る。女の子は焦ってなかなかハイヒールを履けない。ここで、スタジオは爆笑。芸人仲間も、ゲストの女優さんたちも。
・やっとのことでハイヒールを履いた女。エレベーターホールでエレベーターを待つ。Kは追いかけてさらに鶏肉を投げる。カンカンカーンと、エレベーターホールを肉が走る。スタジオ爆笑。
・エレベーターを諦めた女はおびえきって階段を降りる。が、そこにも鶏肉が投じられる。コココーン。コーンコーン。鶏肉がハイヒールを追いかける。スタジオはさらに大爆笑。芸人仲間は両手を大きく叩きながら大笑い。女優さんはハンカチで涙を拭きつつ笑う。

 

 ……いったいこの話のどこが面白くて彼らはあんなに笑っていたのだろうか。
 それがわからない。
(ぼくも常々思っていたこと…3.2。下線を引いたのはぼく)

1. 「そんなつもりで来たのではない」という女性に非があるのだとすれば、あまりにも無警戒だったところだろう。軽率だったかもしれないし、世間知らずでもあった。若い女性が、深夜に男が一人住まいをしている家に上がり込むということには、たしかにそれなりの意味がある。慎重に考えなければならない。
2. とはいえ、上がりこんだ判断が軽率であったにしても、意に染まぬ行為を拒否する権利は当然、女性の側には残されている。どんな場合であれ。夫婦の間であってさえ
3. 第一、男二人に女一人という状況で、どういう行為が想定できたというのだ?
4. 百歩譲って、男が感情を害した点は理解してさしあげるとして、だ。
5. でも、だからって、女性はコールドターキーをスローイングされるにふさわしい暴挙を働いたというのか?

 私は道徳の話をしているのではない。
 そもそも芸人がテレビで話している話だ
 誇張があるのかもしれないし、まったくのつくり話であった可能性だってある。
 もっともつくり話なのだとしたらだとしたらそれはそれで別の問題が持ち上がるわけだが。
 ともかく、私がここで言いたいのは、「K兄」の行動の是非についてではない。
 ぜひ問いただしたいのは、この話がゴールデンでイケると考えた判断の根拠だ。
 これが「笑える」と考えたセンスも、大いに疑問だ

 だって、普通の視聴者が普通に聞いて、単に不快なだけのエピソードだからだ。

 おそらく、笑いのポイントは、件の女性が「あわてふためいて、うまくハイヒールがはけなくなっている様子」の描写と、乾いた床を滑る硬い冷凍肉の擬音なのであろう。

 でも笑えないな。
 毛ほども。
 つまり、この話で笑っていたゲストの女優さんたちの感覚もやはりどうかしていたということだ。
 彼女たちは、笑わざるを得なかったのだろうか。
 それほど、スタジオの空気には強圧的な何かがあったということなのか?

 あるいは、女優さんの笑いは、ほかの場所での笑いを編集で挿入した形の映像だったのだろうか。
 だとしたら、それもまた別の意味で問題ではある。真相はわからないが。

 一番不思議なのは、この話を「オンエア可能」とした放送局の人間の判断だ。
 こんなものがOKだと、本当にテレビの中の人はそう考えたのだろうか?
 だって、時効ではあっても、レイプまがいの、傷害未遂ですぜ。それを武勇伝みたいに話して、おまけにそのムゴい話で笑いを取ろうとしている。こんなものをゴールデンで流して無事で済むと、彼らは本当にそう思っていたのだろうか。

 

 関西の芸人集団の中には、お笑いが色物興行であった時代から脈々と受け継がれてきた粗野なマッチョイズムがある。語り口には露悪が含まれてもいる。それゆえ、その彼らの武勇伝を額面通りに受け止めるのは賢明な態度ではない。
 やんちゃ、ハチャメチャ、奇行、泥酔、暴力……芸人の世界には、そうした典型的な逸脱を、「男の甲斐性」「芸の肥やし」として美化する風土がある。しかも、彼らの中では、「女をモノとして扱う」ことが「男らしさ」のひとつの証明になっていたりする。ミソジニー。女性嫌悪。あるいは単なるセックス自慢だろうか。ま、幼稚なヤンキー趣味ですよ。どっちみち。

 芸人同士が仲間内の楽屋話として笑い合っている限りにおいて、それがどんなに鬼畜なエピソードであっても、私はあえて問題視しようとは思わない。
 芸人でなくても男同士の内輪話には、粗暴さを強調する傾向が抜きがたく存在している。
 そこいらへんのスナックで語られている「面白い話」には、猥談要素が少なからぬ度合いで含まれているものだし、「高校の時に隣のクラスにいたあきれた乱暴者の話」や、「ラグビー部の連中が合宿所の周辺で酔った挙句にやらかした愚行の数々」みたいな挿話に至っては、ほとんど犯罪自慢でさえある。誇張があるにしても。

 だから問題は、鶏肉が滑った話の真偽や内容ではない。
 この話をゴールデンのテレビで流したことの影響だ。 

 こういう話をすると、
「いい人ぶっている」
「いよっ! 聖人君子」
「笑いのわからないやつ」
 みたいな反応をする人々が必ず出てくる。
 あるいは
「お前は、人のことを言えるのか? これまで生きてきた中で、法律に違反したことが一度もないのか?」 
 といった言い方で、問い詰めてくる向きもあるはずだ。

 一応、マジレスをしておく。
 私は聖人君子ではない。
 常に間違いなく制限速度以内で国道を走っているかどうかについて、私は明言しない。
 メディアを通して発言する立場の人間にとって大切なのは、何をしたかではない。何を言ったかだ。

「関越で180キロ出したぞ」
 と、ブログに書くのは、愚かであるのみならず、反社会的な行為になる。
 テレビでそれを言うに至っては、言語道断。蛮行と申し上げて良い。

 この番組が醸していた違和感のポイントは、視聴者の側から見て、「部屋にあげた女は、好きなようにして良いんだぜ」という話者の立場を、スタジオの全員が是認しているように見えたところにある。
 致命的な空気だと思う。
「女の子が男の部屋に上がるってことは、私を自由にしてくださいちゅうことやで」
 という、このどうにもヤンキーな判断は、あるいは、彼ら関西の芸人の世界では常識であるのかもしれない。

 しかしながら、平日のゴールデンタイムの全国ネットにおいては、その限りではない。
 
 その意味で、当日、スタジオに集まっていた芸人は、皆、異常だったと申し上げねばならない。
 ああいうもので笑えてしまうほどに彼らは狂っていた。。
 結局、お笑いブームが行き着いた到達点のひとつが、この日のこの武勇伝だったということだ。
 誰かを「笑いもの」にすることで生じる笑い。生身の人間があわてていたり、おびえていたり、悲鳴をあげている様子を観察して、それを笑いに転化する手続きを「芸」と呼ぶことでまわっている異様な世界。
 不愉快な話だ。
 誰かをひどい目に遭わせること。おびえさせること。あわてさせ、悲鳴をあげさせ、挙動不審に陥らせること——こういう状況を招来する力を、彼らは「笑いの能力」であるというふうに認定している。
 つまり、暴力の周辺に生じる奇妙な人間の姿を彼らは笑っているわけだ。

 笑いは、権力に対抗する有力な手段だと、大学の教室ではいまだにそういうお話がまかり通っているのだろうか。
 もちろん、そういう場合もあるだろう。
 巨大な権力に圧倒されていた古い時代の民衆は、表立った抵抗を断念する代わりに、笑いで抗議の意を昇華していたのかもしれない。

 でも、笑いが権力に対抗できるのは、それ自体が権力だからだ。
 というよりも、笑いは、多くの場合、権力を媒介している。そういうものなのだ。
 われわれが笑う時、その笑顔は力を持っている者に向けられている。営業部長が何かを言うと営業部の全員が笑う。得意先の重役が軽口を叩くと、テーブルのこっち側にいるわが社のすべての人間が大きな声をあげて笑う。そういふうに、笑いは、強い者から弱い者に向けて強要され、目下の者から目上の者に向けて奏上されている。
 だから、そういう権力の通り道で誰かが本当のジョークを言うと、全員の顔がこわばる。
 本当に面白い話を聞いた時、権力的な場所にいる人間の表情はむしろ固まる。なぜなら、そこで笑うと、反抗の意図が明らかになってしまうからだ。

 お笑いブームが行き着いた到達点も結局は権力の誇示だった。
 コネクションと強要と上下関係と立場。それらを円滑化するためのベトベトした潤滑油みたいな不潔な笑い。


 芸による笑いは、生産性が低い。だから、現場では忌避される。手間がかかる割に、成果があがりにくいから。
 かくして笑いの現場は、笑い者生産事業にシフトして行く。笑い者にされる笑われ者の悲喜劇。笑わせる人間よりも笑われる人間を重用するスタジオの生産管理思想。いや、これは笑い事ではない。
 大物芸人の名前が冠としてタイトルに付加されている番組では、特にその傾向が強い。
 誰もが紳助の顔色をうかがっている。
 出演者の全員が、松本に向けてしゃべっている。
 そして、ボスが何かを言うと、全員が笑う。まるでワンマン企業の哀れな下っ端社員みたいに。たいして面白くもないのに。シンバルを叩く猿のおもちゃみたいに誰もが同じリズムで両手を叩きながら笑うのだ。
 だから私は、この手の番組を見ない。
 出演者が視聴者の方を向いていないからだ。
 誰かが誰かにおべっかを使う姿を見て時間をつぶさなければならないほど、オレが寂しい暮らしをしていると思うのか?
 冗談じゃない。
 お追従笑いがいやで会社をやめたのに、どうしてテレビでそれを見なければならんのだ?
 

(略)
 そのためには、まず、客が上に立たないと行けない。
 良い芸には、ご褒美を投げる。
 たとえばチキン・ナゲットとかを。
 滑った芸には?
 凍った鶏肉(コールド・ターキー)がふさわしいと思う。

 

     キラキラキラキラキラキラキラキラキラキラ


前日、前々日、マルセ太郎という寄席芸人のことを紹介しました。笑いとは何かを考えながらの事でした。

 

一部に、「松本人志はすごい才能だ、天才だ」と持ち上げる人々がいます。関西の芸人たちがそういうのは、仲間褒めとして、どうにも気持ちが悪い、ぼくには。

ああした「笑い」がもてはやされていること、それが問われなかったゆえの結果ではないのだろうか。

 

小田嶋さんのコラムに、北野武と松本人志を比較した文章があります。

太田光と松本人志を比べたものも。それもまたなるほどです。ここは長くなるのでデータを貼っておきます。

 

《松本人志氏の動向が注目を引いているようなので、以前、彼について書いた原稿を二本ほどブログ上に召喚することにしました。
寛大な気持ちでご笑覧いただければさいわいです。》
2019年7月29日の記事。

今の状況を予言したような内容です。

 

 

もう一度、マルセ太郎の映像を見直そう。