キラキラぼくは、40歳代後半から50歳代に入るころ、教師という仕事に迷っていました。山あり、谷ありは当然です。教職に就く前から、まともな教職のための学習もしていなかったし、特別な教育実践サークルにも属していませんので、授業も弱点だらけ。付け焼刃な実践だから、継続的な取り組みにも欠けていました。

焦っていたぼくは、本だけは購入して話題のトピックをつかもうとはしていました。それらはおよそ研究とは言えませんでした。不勉強、系統性のなさに情けない思いもしていました。

また、引き受けての少ない教職員組合の役員をずっと引き受けていて、毎日忙しくしていました。週に3日ぐらいは組合のための会議や動員などに当てていました。

 

キラキラその頃は、ずっと高学年担任を続けていました。どこかのクラスが「崩壊」すると、その「手のかかる」(とされる)学年・学級の担任を引き受け、学年活動などを積極的につくるとりくみにのめり込みました。便利屋みたいな存在だったかな。

 

キラキラ指導に困難がある学級を担任することは、のんきに向き合うことなどできません。表情にそれを出すことは無かったけれど、内面に緊張を抱え込むことは多く、気を休めることもままなりませんでした。

気を抜くと、様々なトラブルが噴出することがしばしばあったからです。孤立無援の感覚があり、それが数年間続くうちに、何とか実践は続けていたけれど、自分の中に、教師の仕事の意味が見えなくなっていました。若いうちはそれでも、何とか出来ていたけれど、体は明らかに下り坂に入っていきました。

 

雷こういう気分で、残りの教員生活が続けられるのかという葛藤を抱えるようになりました。誰にも言わなかったけれど「退職」ということも何度か胸をよぎっていました。

これではだめだ。その頃、「教育活動」一本やりの日々を切り替えようと強く思いました。本来豊かさが求められるのに、義務的におこなう教育活動は、子どもたちにとっても苦痛だったはずです。

 

雷日々の活動と生活にONとOFFをはっきりさせようと思いました。では、OFFの時にどうするか。

ひとりでのOFFの時間の使い方は、不器用なぼくにはできないと思ったので、周りの人と関わって楽しいことをしようと思いました。

下町居酒屋巡りがそれでした。イーハトーブの旅もそうです。

そして、その頃であった面白い芸人の追っかけをすることも。

コント・ニュースペーパーのステージを毎回行きました。チケット手配はぼくでした。フリーになった松元ヒロさんの舞台も。

さらに、浪曲師・国本武治の舞台に通いました。おお、そうだ、伊藤多喜男のコンサートに友人たちを誘っていったこともありました。南中ソーランが流行るずっと前のこと。

 

雷一番インパクトのあった芸人、それはマルセ太郎でした。

マルセ太郎は、寄席芸人でしたが、その枠に収まらない人でした。知的で思索の人でした。

50歳を過ぎてから、永六輔さんたちによって「発見」された彼の芸は「スクリーンのない映画館」として花開きました。

 

雷かつて、永六輔さんがテレビの上質なバラエティのコーディネートをしていました。この映像の中にマルセ太郎さんが出てきます。スクリーンのない映画館のさわりも。(25分くらい映像の3分頃からマルセ流の「国会中継」、「人形浄瑠璃」、「講談の名人芸」、「日本舞踊の成り立ち」、22分頃から「スクリーンのない映画館。イタリア映画」)まずこれをどうぞ。

 

雷50歳過ぎでも、自分らしく花開かせることができるかも…。マルセ太郎の舞台や彼が書いた戯曲の劇などずっと見に行きました。

はじめのころの思い、それが教師としての力量にどう生かされたか、次第にそんなことはどうでもよくなり、今を楽しむことがそのころからできるようになっていきました。

 

マルセ太郎さんの関連本。時々手に取ります。マルセカンパニーでの劇上演は全て行きました。毎回、マルセさんからお礼のはがきが来ました。それはぼくのお宝です。

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マルセ太郎『泥の河』を演じた映像は次回に。