「ブギウギ」話題です。
戦時下の日本で、福来スズ子(モデル:笠置シヅ子)も茨田りつ子(モデル:淡谷のり子)も各地を慰問していました。
二人とも「軍歌はキライ」な人物です。
1月5日の放送では、りつ子は鹿児島の特高基地で特攻隊員の前で歌を歌います。軍歌を歌うようにとの要請に対し、りつ子は若者たちのリクエストの曲を歌うといいます。
出征前の若者たちからは、「別れのブルース」がリクエストされました。
「別れのブルース」は、出征兵士を鼓舞するようには思えません。
知らない人のために紹介しましょう。
1937(昭和12)年、日中戦争の下、淡谷さんの歌です。SP盤のレコード。
朝ドラの中の場面より。
ここでは、茨田りつ子のモデルであった淡谷のり子さんのことを紹介します。
軍歌ではない曲を歌う2人。この対比が演出されていて、感涙ものでした。
軍歌はキライ
NHK青森放送局は、「ブギウギ」の茨田りつ子(淡谷のり子)の応援ページを放送しています。そこに淡谷のり子さんのことが紹介されました。
また番組の公式インスタには以下のような記事がありました。
【第66話を放送。りつ子が鹿児島の若い特攻隊員たちの前で、「別れのブルース」を歌うシーンが描かれた。
公式インスタは「信じていたりつ子さん。りつ子さんの歌を聞いた特攻隊員たちの覚悟の言葉と表情に、思わず涙が耐えられなくなってしまいます。」と紹介。りつ子が舞台袖で泣き崩れるシーンのカットを投稿。
「りつ子さんのモデルである淡谷のり子さんが、一度だけ観客の前で号泣して歌えなくなったというのが、特攻隊の少年兵たちの前で歌った時だそうです。」】
調べてみると、淡谷のり子さんのことばがいくつも残っていました。
/1979年放送「お達者ですか」より
《「絶対モンペ履きませんでした。せめてステージのときくらいね、お聞きになっていらっしゃる方たちもね、夢をもっていただきたい、そのときだけでも心配ごとでもなんでも、嫌なことでも忘れてもらいたい。私はね、とにかく歌うたうためには、いろんなことを犠牲にする女だから、あなたがたが何とおっしゃってもね、その言葉は私の耳には入りません。ずいぶん言われましたよ。とにかく反発しましたわよ」》
淡谷のり子/1992年放送「歌に恋して85年」より
《「特攻隊のときだけは、わたし初めて舞台の上で泣きました。
行ったらね、固まっている兵隊さんがいたんですよ。固まっている兵隊さんを見て、ちょっと不思議なんですね。
子どもさんじゃないかと思って、あれは特攻隊で命令が来たら飛びますから、平均年齢が16歳ですって、みんな白ハチマキしてね、はぁ~命令が来なきゃいいなと思って、歌っている間に来たらごめんなさいって言うんですよ。
来なきゃいいですねと思っていたら、来ましたね。すっと立っていくのかと思ったら、その兵隊さんが笑顔で私にこうやって、あいさつしていなくなる。
そのときくらい悲しいと思ったことはないですね。二度と再び帰らないと思ったらもう胸がせつなくて歌えなくなっちゃって、ちょっとまってください歌わせてください、待っていただいて、それで(歌って)送り出しました」》
「じょっぱり」の人
淡谷さんは、歯にもの着せずずばりいう人でした。そういう人を「じょっぱり」と青森では言うそうです。「強情っ張り」がもとの意味です。でもそれは、自分勝手ということではなく、自分の信念を貫くといういみもあるようです。
《軍歌はもちろんだけど演歌も大嫌い。情けなくなるの。狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ。私は美空ひばりは大嫌い。人のモノマネして出て来たのよ。戦後のデビューの頃、私のステージの前に“出演させてくれ”っていうの。私はアルゼンチン・タンゴを歌っているのに笠置シヅ子のモノマネなんてこまちゃくれたのを歌われて、私のステージはめちゃくちゃよ。汚くってかわいそうだから一緒に楽屋風呂に入れて洗ってやったの。(その後ひばりが)スターになったら、“そんな思い出ないや”っていうの。》— 西村建男「余白を語る――淡谷のり子さん」朝日新聞1990年(平成2年)3月2日
《今の若手は歌手ではなく『歌屋』に過ぎない。歌手ではなく『カス』》
時代に翻弄されながらも、それでも自分を貫こうとした人たちがいた、それを知ることができる魅力のドラマです。