ハンセン病資料館ガイドをリクエストに応えて、土・日に行いました。
土曜日は練馬区の医療生協の利用者のメンバー。
ハンセン病資料館まで清瀬駅からバスを利用して来てもらいました。年齢は高めの方たち。ゆっくりと案内しました。
日曜日は、大学生・希望して参加した人たち。若い人たちでした。
こちらは新秋津駅前に集合し、近くの「淵の森」を散策してからハンセン病資料館へ向かいました。
両日ともいい天気でした。
「本妙寺に行ったことがあります」
昨日は、資料館をガイドしながら館内を進んでいたら、資料館の学芸員のかたの解説案内と重なってしまいました。初めは、独自に解説していましたが、さすがに同じ場所では、学芸員の方に失礼にならないように、その解説を優先して聴いてもらいました。参加者の希望なども考慮して、軽重をつけて解説されていたので、ぼくは自分の関心と一緒に回っている方たちの関心とを勘案して、別の解説をするようにしました。
土曜日の参加者の方から、熊本の本妙寺について「行ったことがあります」の声をかけられました。その方は、熊本出身だそうで、黒髪(小学校)という名前も懐かしく聞いたということでした。
「黒髪校事件」(菊池恵楓園に入所しているハンセン病の方たちのお子さんたちが暮らしていた竜田寮からの「未感染児童」の入学に反対し、阻止しようとしたPTA幹部たちと、それに対して、入学賛成した保護者たちの一部)については、ぼくの伯父が賛成派として一方の当事者だったこともあり、また学校の教師たちのほとんどが沈黙してしまったことを知り、自分がそのような立場にいたら、どう向き合えただろうかと考えることが、自分にとってのハンセン病問題であると思ってきました。
11月の九州への帰省にあわせて熊本の菊池恵楓園に行ったのも、「黒髪校事件」や「本妙寺事件」のことを更に知りたいと思っていたからでした。
2018年4月の訪問に続けての2回目の訪問でした。
そのことについてはこの記事で紹介しています。
なぜ熊本にハンセン病患者が多かったのか。これは「本妙寺」という加藤清正の菩提寺と深く関わっています。この寺に、全国各地からハンセン病患者が集まり、集落を形成していました。
「癩予防法」によって、この本妙寺の集落の患者の方たちも九州療養所(後の菊池恵楓園)他の施設に一斉に収容されたのが1940(昭和15)年7月の「本妙寺事件」です。
菊池恵楓園のホームページに詳しい解説があります。そこから。
本妙寺事件
本妙寺とは
飽託郡花園村(現;熊本市西区島崎)にあるお寺「本妙寺」は日蓮宗六条門流の九州総本山です。熊本城を築城したことで有名な戦国大名・加藤清正によって建立されており、400年以上もの長い歴史を持っています。清正は熱心な日蓮宗信者でもありました。
全国からハンセン病患者が集まる
明治時代の初めには、本妙寺はハンセン病患者の集合地としても知られるようになります。加藤清正の死に様に不審があったことから「家康に毒饅頭を食べさせられた」「癩になって死んだ」などの風説がつくられたことがその理由の一つとされています。この本妙寺で祈れば清正の慈しみによって回復するという信仰が生じ、多くの患者が集まるようになったとされています。他にも日蓮宗が重視する経典「法華経」の一節に「癩」の記載があるためともされています。
本妙寺の周囲には明治時代の中頃から、ハンセン病の患者が生活する集落が形成されていきます。この時期、全国の各地で患者が集まって生活する場所が存在していましたが、特に本妙寺は帝国議会でも言及されるほど多数の患者が集まる場所でした。
九州療養所の設置
明治42(1909)年に九州療養所が設置されて以降、この周囲に住む患者は度々収容の対象とされてきましたが、その後も集まる患者の数が減ることはありませんでした。
昭和期になると、日本は軍国主義の時代に突入します。特に昭和12(1937)年の日中戦争開戦以降、国民意識は高まっていきます。昭和15(1940)年は「紀元二千六百年」、この年は伝説上の初代天皇・神武天皇が即位した年とされており、このときには全国各地で記念事業が展開されています。
事件の発生
昭和15年7月9日、熊本県警と九州療養所が協力して本妙寺集落患者の検挙、集落の解体が実施されました。145名の患者が検挙され、そのほとんどが他県の国公立療養所に移送されました。
療養所以外の選択肢、その可能性
療養所で生活するしか認められなかった人たち、療養所から逃れた人たちの集まる場所であった本妙寺もこのような形でその存在が否定されました。本妙寺集落の実際の治安や衛生状態、患者生活の実態などについては今後考察されるべき点が多くありますが、療養所での生活以外の選択肢、少なくともその可能性が本妙寺の患者集落にはあったのです。
明治時代、キリスト教を布教するために日本に来た宣教師たちは、熊本に多くいたハンセン病者の救済活動に力を注ぎます。
イギリス人のリデルの「回春病院」やフランス人のコールの「待労院」が、日本の施設の前から存在していました。
回春病院にあった「日光回転家屋」が、菊池恵楓園に移築されています。
待労院の後には「コール館」があります。