イーハトーブという言葉
「イーハトーブ」という言葉は、賢治の出版(実質は自費出版)した『注文の多い料理店』の広告文でも有名です。この「広告文」を書いたのは2013(大正12)年、農学校教師2年目の事でした。
広告文では「イーハトヴ」という表記になっています。
賢治は、表記を年月や状況の中で、
「イーハトヴ」⇒「イーハトーヴ」⇒「イーハトーボ」⇒「イーハトーヴォ」⇒「イエハトブ」などと変えています。晩年に使ったのは「イーハトーブ」でした。
エスぺラント語から
この「イーハトーブ」は、賢治が関心を寄せていた<エスぺラント語>によっています。
賢治は、自分の作品を、国を超えて世界の人に届けたいという思いがありました。独習したり、東京での講座に参加したりもしています。
ただし、それらを日常的につかう場面もなく、賢治は、いくつかの作品のなかで生かしました。
1926年11月、旧交を温めようと訪ねてきた盛岡中学校時代の友人・小菅健吉に対し、賢治は「世界の人に解ってもらうようエスペラントで発表するため、その勉強をしている」と語ったとされています。(*『校本宮沢賢治全集』第14巻「年譜」、1977年、筑摩書房)
とくに、『ポランの広場』や賢治が亡くなる前年(1932年)に発表した『グスコーブドリの伝記』他では、都市名や人名などにエスペラントの影響が強くみられます。
・岩手の旧かな表記イハテからのことばがエスペラントの「イーハトーブ」。
・「モリーオ」(盛岡)、「センダード」(仙台)、「トキーオ」(東京)、「シオーモ」(塩釜)の地名を使用。
『注文の多い料理店』の「序」と「広告文」
賢治による『注文の多い料理店』の「序」です。
序
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
大正十二(1923)年十二月二十日 宮沢賢治
さて、「イーハトヴ童話」の広告文です。1923年、27歳の賢治。この「序」を書いて、翌年1924年に、生涯で2冊だけの本を出しました。この「注文の多い料理店」と「春と修羅」です。農学校の教師として充実の2年目時でした。
《注文の多い料理店 広告文》
イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスが辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。
実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従へて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
罪や、かなしみでさへそこでは聖くきれいにかゞやいてゐる。
深い掬の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会、ベーリング市迄続々電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。この童話集の一列は実に作者の心象スケツチの一部である。それは少年少女期の終り頃から、アドレツセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとつてゐる。
この見地からその特色を数へるならば次の諸点に帰する。
一.これは正しいものゝ種子を有し、その美しい発芽を待つものである。而も決して既成の疲れた宗教や、道徳の残澤を色あせた仮面によつて純真な心意の所有者たちに欺き与へんとするものではない。
二.これらは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しやうとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる警異に値する世界自身の発展であつて決して畸形に涅ねあげられた煤色のユートピアではない。
三.これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。
多少の再度の内省と分折とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。
四.これは田園の新鮮な産物である。われらは田園の風と光の中からつやゝかな果実や、青い蔬菜を一緒にこれらの心象スケツチを世間に提供するものである。
注文の多い料理店はその十二巻のセリーズの中の第一冊で先づその古風な童話としての形式と地方色とを以て類集したものであつて次の九編からなる。
(以下、広告文には9編の簡単な紹介があります)
イーハトーブの「イメージ」について
賢治の作品には、岩手の豊かな自然や個性的な人々、動物たちが数多く登場します。
それらの心象風景としての「イーハトーブ」をドリームランドと名しました。
それゆえ、これは「牧歌的なイメージ」と捉える人も多いでしょう。
しかし、賢治作品『グスコーブドリの伝記』に描かれるように、当事の岩手の現実は相当に過酷でした。
『グスコーブドリの伝記』のストーリイを簡単になぞってみます……
・ブドリとネリの兄妹。 ・両親の自死。人さらいがネリをさらう。
・ブドリは重労働に。 ・イーハトーブの市でクーボー博士に会う。火山局へ。
・ペンネン老技師とブドリは溶岩流から市を救う。
・農民を凶作から救う。ときには、肥料配合を間違った技師が、農民たちから非難され、袋叩きにあう。(実際の賢治の活動と重なります。)
・ブドリの活躍を新聞で知った女性がブドリを病院に訪ねる。ネリだった。 27歳のブドリは冷害から人々を守るために火山を爆発させようとする。
・ペンネン技師をさえぎり、自分が火山を爆発させるために死地に赴く。(この作品は、賢治の死の前年の1932(昭和7)年発表。「雨ニモマケズ」を書いたのはこの作品を書いていた頃。1931年11月3日のこと。賢治の思いがよく伝わります。)
賢治の生まれた年は、大地震。亡くなった年にも大地震と大津波。
過酷な岩手の現実 地震 津波 異常気象 冷害 飢饉 凶作 金融恐慌…
賢治は、家業(質屋)の店先で貧しい人々の姿に触れました。更に岩手の農民たちの現場を土質調査・研究するなかで見て、否応なく現実を突き付けられたのです。
『注文多い料理店』の版元であった「光源社」の社長・及川隆二さん(祖父が賢治の盛岡高等林時代の1年後輩)が語っています。(『宮沢賢治と石川啄木』2012.10月15日、徳間書店)
「理想郷」と賢治の思い
――光源社 及川隆二さん
賢治にとって「イーハトーブ」は、心からそうあってほしいという、已むに已まれぬ言葉であったことは、心しておきたいと思います。
この版元の「光源社」と言う名前も、賢治が名付けています。
12巻ものシリーズの刊行計画をしていたけれど、その1冊目は1000冊印刷した内、わずか30部~40部しか売れなくて挫折しました。
落胆は大きかっただろうなあ。