<伊波敏男さんの話の⑥回目。ハンセン病という病、しして、そのことで生じている様々な差別、そして困難をどのように受け止めて来たのか。それを、これまでに様々な人との出会いの中から受け止めて、生きてこられたことがわかりました。

その6回目は、元患者となった伊波さんの就職と結婚のことが、どのように向き合ったかが語られます。
就職した「東京コロニー」は、結核患者の回復者のためにつくられた施設です。ぼくの住む清瀬市の南側には、結核関連の病院、療養所があります。
結核回復者は低肺機能者のために、東村山につながる一帯には、その方たちのための授産施設、住居施設があります。(家人はそうした施設の診療所で看護師として長く働いていたこともあります。)
「東京コロニー」(東村山)は、全生園近くの青葉町にあります。そこに、伊波さんは、初めてのハンセン病からの回復者として就職しました。印刷所作業もしていて、元ハンセン病患者の方たちの本なども印刷しています。全生園の中の子どもたちの学校で患者教師であった氷上恵介の小説『オリオンの哀しみ』の印刷所も奥付をみたら、ここでした。(3・2)>

    スター  スター  スター

要所要所で、大きな影響を与える人たちとの出会いがあったんですね。
そのあと伊波さんが就職した東京コロニーというのはどういうところですか。

社会事業授産施設といって、一般企業で雇用されるのがむずかしい人たちに職業訓練をし、社会的自立ができるよう支援をする社会福祉施設です。もともと結核の回復者のためにつくられた施設でした。そこで印刷工として働くことになったんです。

 

ハンセン病回復者の受け入れは初めてということもあり、最初は大変でした。私の受け入れに反対する人も多く、ずいぶん議論があったようです。仕事をするようになってからも見えないところでいろんな差別がありました。私が来てから、入所者が寮のお風呂に誰も入りたがらなくなって外の銭湯に行くようになってしまったとか、食堂では私が使う食器にだけこっそり目印がつけられていたということもあった。

 

私のために尽力してくれた常務理事の調一興さんは、東京コロニーの現場にそういう差別があることを知り、「全従業員を集めて厳しく注意をする」と言ってくれましたが、私は「しばらく待ってほしい」とお願いしました。コロニーの皆さんはいま、自分の身に付いてしまった差別意識を、1枚1枚脱いでいるところです。組織のトップであるあなたがあるべき道理を説き、過ちを指摘すれば、だれも反論できません。でも、これまで身に付けた社会認識を無理に脱がせようとしてはだめだと思います。自分自身で到達する納得こそが必要です。もう少し待ってあげてほしい。そんなふうに調さんに言いました。

 

あるとき、仕事が終わったとき、みんなでビール1本をお猪口で回し飲みするところへ声をかけてもらいました。給料が安かったのでそうやって1本のビールをみんなで分けあっていたんです。「ああ、ようやく空気が変わり始めたな」と思いましたね。

 

<結核回復者に対する差別もありました。そのことに深くかかわる作業所なのに、東京コロニーないに、ハンセン病に対する偏見は強く残っていたことに、ショックを受けました。しかし、そのことに正面から向き合っていった伊波さん。(3・2)>

社会復帰してからもハンセン病回復者であることを隠しとおす人が多かったと思いますが、
伊波さんは最初から隠そうとしなかったんですか。

隠さないで生きていこうと思っていました。それにはひとつ理由がありました。

入試に合格して何人かの生徒とともに、熊本から岡山に送られたときのことです。私たちは郵便貨物列車に乗せられていました。車両には「伝染病患者輸送中につき入室を禁ず」と張り紙があり、いつも監視が付いていた。私はその車中で、1954年の「MTL(キリスト教救らい協会)国際会議」の報告書と、1956年の「ローマ会議」の報告書を読んだのです。そこには、「ハンセン病はすでに治る病気であり、隔離収容は是正されるべき」ということが書かれていた。天地がひっくり返るような衝撃を受けました。いままさに、人間以下の扱いを受けながら、ぼくたちは岡山に移送されている。いままではそれが当然のことのように思わされてきた。でもこれはまちがっている。日本はまちがったことをしているということをはっきりと理解したんです。

 

もうひとつ理由がありました。長島で私が何回も受けた手術に立ち会っていたある看護婦のことが好きになってしまったんです。職業上の献身的なサポートを個人的な好意だと思いちがいをしてしまって、彼女も私と同じ年に東京の高等看護学校に進学すると聞いて、ラブレターを送ったんです。そうしたらこともあろうにみんながいる前で突き返された。

「あなたはハンセン病療養所で療養の身です。私はあなたより年下だけど自分の生活は自分で責任を持っています。そんな私とあなたが、どうして人生や夢を語りあえるのでしょうか」と強烈なことを言われた。それで頭に来ちゃった(笑)。おかげで、「ようし、絶対に社会復帰してやろう」と、ますます火がついた。

その看護婦さんが、のちに奥さんになられた方ですか。

そうです。東京コロニーで最初の給料をもらったらすぐに会いに行きました。「自分の力で働いて稼いだ給料だ。これで条件はクリアした。付き合ってくれ」とね(笑)。彼女は、「回復者であることを隠さない」という私の生き方を理解してくれました。共に頑張ろうと誓いあって、二人の生活がはじまりました。

 

所帯をもった直後、NHKから私たちを取材させてほしいという話が来ました。回復者であることを隠したがる人が多いなか、私のように公言する人は珍しかったんですね。新婚間もない家庭にテレビカメラが入って妻とともに密着取材を受けました。

 

「人間列島」というドキュメンタリー枠の「ある結婚」という番組で、1972年の11月に放映されることになっていました。ところが、当日になって、突然、放映が中止されてしまったんです。元ハンセン病患者が出演する番組ということでNHKでも力を入れて、繰り返し番組宣伝を流していたんですが、回復者であることを伏せて社会に出ている人たちがそれを見てびっくりして、「過去の病歴を隠して生きている私たちを殺すのですか」と、局に抗議が殺到していたらしい。ハンセン病の問題を社会に知ってもらいたいという思いで、夫婦のプライバシーまでをテレビカメラの前でオープンにしたのに、そのような騒動が水面下で起っていたことは私たちにはまったく知らされていませんでした。

 

私は断固として抗議し、放映を求めつづけました。結局、3月31になって、予告もなく、突然番組が放映されたのです。

1972年当時にそんな番組があったんですか。
反響はかなり大きかったでしょう。

私たち夫婦が入っているアパート(*清瀬市にあった)が大騒ぎになりました。大家さんに対して「あの夫婦を追い出せ」という話もあった。大家さんが頑として「私にはあのご夫婦が住んでいることに何の不都合もない。嫌ならあなたたちが出て行ってください」と言ってくれたんですが、それから間もなく、抗議者たちがアパートを引き払ったことを大家さんから知らされました。

 

その後、多磨全生園隣接地に、職員用の2LDKアパートが新築され、6所帯の利用希望者が公募されました。民間アパートに比べ家賃が4割も安かったこともあり、応募者が多く抽選となったんですが、運よく私たち夫婦が当選した。ところが、当選結果が職員掲示板に張り出されると、他の当選者たち5所帯が全員キャンセルしてしまったんです。繰り上げ補欠組の5所帯も間もなく辞退しました。それから半年近く、私たち家族だけが6所帯用新築アパートに入居していました。いつまでも空室にしておくわけにはいかず、民間不動産会社に委託されてやっと部屋が埋まりました。3年前、その「柊荘」をこの目で確認したくて訪ねましたが、築40年ながら、まだ利用されていましたよ。

 

妻はそれらの騒動に対しても、いやがらせに対しても気丈に振る舞い、耐えていましたが、さすがに子どもたちに向けられた攻撃によって、精神的に追い込まれていったようです。子どもを預けようとした保育園でも入園拒否問題が起こり、共に偏見と闘うという二人の約束が、次第に揺らぎはじめました。それでも私は、社会と闘う勇士のように振る舞い、「ハンセン病問題」を声高に訴えつづけていましたが、その反動が療養所の現場で働く元妻に向けられていたんですね。

 

ようやく子どもは保育園に受け入れてもらいましたが、私は、それから四十数年後に元保育園関係者からの証言で初めて、その裏に隠されていた事実を知りました。妻は「子どもの送り迎えを、いっさい父親にはさせない。保育園には立ち入ない。準・深夜勤務時は、第三者が子どもの送り迎えをする」という誓約をさせられていたんです。妻はこのことをひとりで胸にしまいこみ、私に話すことはなかった。この事実を初めて知らされたときは、あまりに重い無念さに怒りのやり場がなかったですね。

 

ハンセン病の患者や回復者と接する機会の多い職員のあいだで
そのような厳しい差別があったということには驚きました。
奥様も家族を守るために一人で闘っていたのですね。

でもついに耐え切れなくなったのでしょう。だんだん私に「子どもたちが自分の意思で判断ができるようになるまでは、ハンセン病のことは口にしないで、ただ手足が不自由なお父さんでいてほしい」と毎日のように言うようになりました。「もしそれがいやなら、誰も知らない別の町で、家族4人で新しい生活をはじめましょう」とも言われました。

 

社会を変えると意気込んでいる私には、それは偏見との闘いからの逃げとしか写らなかった。妻の心変わりをなじりました。息子が8歳、娘が5歳のとき、とうとう夫婦関係が壊れてしまい、妻から離婚届を突きつけられました。条件は、二人の親権を妻に譲ること。また、「私たちの行方を捜さない」ことを約束させられ、署名を求められました。

幼い子どもたちは、そんな夫婦の事情はなにも理解できなかったと思います。とくに息子が「ぼく、お父さんといっしょに暮らす」と言い張って困らされました。「だって、ぼくがいなくなったら、お父さんのシャツのボタンは誰がかけてくれるの」と泣きながら言われた。障がいのある手で服のボタンをかけるのが大変だったのを、いつも息子がやってくれていたんです。私は「10年たったらまたお父ちゃんに会えるよ」と言いました。そんなアテは何もなかったのですが、言い聞かすために嘘を言ったんです。

 

それから子どもたちには会うことはなかったのですが、ちょうど10年たった息子の誕生日の夜、電話がかかってきましてね。いきなり男の声で「約束守れよ」と言われた。最初は誰なのか、何のことなのかわからなかったんですが、「ぼくの名前を元にもどせ」と言われて、息子だと気が付きました。その後、息子に会い、やがて娘とも会えるようになりました。

 

こんなことを経験してから、ハンセン病は、病んだ個人の問題ではない。家族全員が巻き込まれていく問題なのだということを痛感しました。

 

社会構成の基礎単位はなんといっても「家族」です。これまでの自分自身の歩みを振り返ったとき、家族を守ることのできない社会との闘いに、果たして正当性が与えられるものなのかと、何度も自問自答しました。いまも答えの見つからないまま、悔恨をひきずっているんですよ。

 

     スター  スター  スター

 

<就職に当たっても、その後の結婚に際しても、伊波さんはこれと正面からたたかって来た人です。しかし、そのことが「離婚」につながったことも正直に語っています。

ハンセン病者に対する偏見の壁は大きいものだと改めて知りました。

 

次回の7回目で、この伊波さんの話はおしまいです。(3・2)>