<伊波敏男さんは、中学生の時に沖縄愛楽園に入園しています。そこで本名名乗ることを奪われました。

ハンセン病の患者たちは、全国各地の療養所において、家族・親族に迷惑をかけぬようにと「園名」を付けられました。

(『千と千尋の神隠し』において、宮崎駿さんが取り上げた背景にこのことがあります。)

 

この沖縄北部の療養所は、5年前に仲間5人で訪問した場所です。

名護の辺野古とは離れた対岸にあります。

その時の写真。

先ずは辺野古です。(3・2)>

<沖縄愛楽園の本館です。>

<1945(昭和20)年の米空軍機銃撃創がコンクリートの水タンクに今も残っていました。>

 

<この愛楽園で過ごす関口進(伊波)少年は、川端康成氏と出会います。

以前に、北條民雄が、川端康成によって認められたことを、「いのちの初夜」とのかかわりで紹介しました。それと同じことが、沖縄のハンセン病療養所でも起きていたのでした。

 

川端の北條民雄やハンセン病に対する姿勢は、当時の日本社会では極めて異例でした。

そのときの一端を調べたブログ記事から。(3・2)>

 

 

以下は伊波さんのインタビュー②です。

もっと本を読みたい。もっと勉強したい。
川端康成との出会いと、進学の夢

少年少女舎(愛楽園)には何歳くらいまでいたんですか。

中学を卒業すると、大人たちのいる一般舎に行かなければいけない決まりでした。それがものすごくいやだった。大人舎には朝から酒を飲んで大声をあげて騒いでいるような青年たちもいる。園のほかに行き場がない、やることもない。だから自堕落になってしまうのはしょうがないんですが、自分も一生、あのなかで暮らしていくのかと思うとものすごく不安になった。とても怖かった。

 

ちょうどそのころ、長島(岡山県瀬戸内)の邑久高等学校(1955年に愛生園内につくられた分校の新良田教室)で学んでいる高校生が愛楽園に来て、話をしてくれたんですね。自分たちが学べる高校があるということをそのとき初めて知った。それから熱に浮かされたように、高校に進学したい、新良田教室に行きたいと思い詰めるようになったのです。

 

沖縄では「ハンセン病療養所は人間が足を踏み入れるところじゃない」なんて考える人が、まだまだ多かった時代です。川端さんのリクエストには主催者たちも頭を抱えてしまったらしい。苦肉の策で、「ひとりだけ子どもを選びますから、その子とだけ会ってください」ということになり、関口進少年、つまり私が選ばれたんです。川端さんに届けられた療養所の子どもたちの作文を読んで、川端さんが「この子に会いたい」と、指名したのだそうです。

川端康成さんは、どんな感じでしたか。

国語の教科書に『伊豆の踊子』が載っていたんですが、その最初のページに出ている顔写真のまんまだなあと(笑)。痩せすぎで、エラが張って、眼だけが大きくギョロッとして。

 

じつは、川端さんに会うところまでが、大変だったんです。挨拶の仕方から、質問への答え方から、口うるさく言われて練習させられて、「進君は目つきが悪い。いつも大人をにらみつけている。もっと優しい眼をしなさい」とか指導されていました。(笑)。

 

そうしていざ川端さんと対面するために入室しようとしたとき、入り口ですっかり足がすくんでしまいました。その部屋には、白い予防服を着てゴム手袋をして黒い長靴を履いた大人たちが30人近くもずらっと並んでいた。それはいつも見慣れている光景だから気にならなかったんですが、驚いたことに川端さんだけがワイシャツ姿で、袖をまくりあげた格好で、ニコニコしながらそこに置かれた椅子に座っていたんです。それを見て、すっかり怖気づいてしまった。

 

校長先生に背中を押されて、しかたなく川端さんのすぐ前に置かれたパイプ椅子に座ったら、「関口君だね」と言って、いきなり手を握ろうとしました。私はとっさに両手を背中の後ろに隠してしまった。川端さんはちょっと悲しそうな顔をして、自分の椅子を引き寄せて、私の太ももを挟み込みました。川端さんが話すと、ツバが顔にかかってしまうくらいの近さでしたよ(笑)。そのままいろんな話をしました。

そのころにはもう、川端さんの尽力で、
北條民雄の『いのちの初夜』が世に出ていたんですよね。

その話も出ました。「『いのちの初夜』は読みましたか」と聞かれました。読んでいたけども、正直言って中学生の私にとって難しかった。だから「よくわかりませんでした」と答えたんですが、川端さんがまた悲しそうな顔をされたので「あ、また余計なことを…」とあわてて、「でも、先生と北條さんとの往復書簡の中で覚えているところがあります」と言いました。「へー、どっどっどこ?」とせきこむように聞かれたので、「僕には何よりも生きるか死ぬか、文学するよりもそれが根本問題だったのです。人間が信じられるならば、耐えていくこともできると思います」という手紙の一部をすらすらと諳んじて見せました。そのころは暗記力はまだ健在だったようですねえ(笑)。

 

すると、川端さんの大きな目の玉から、シャボン玉みたいに涙がこぼれてきた。私の太ももをパンパンと叩いて、「進君! 関口君! 君は北條民雄の悲しさ、『いのちの初夜』が、わかってますよ」

 

そこで時間切れになりました。川端さんは私の手を握りなおして、こんなことを言ってくれたんです。「進くん。自分の中にたくさん蓄えなさい。そして書きなさい」。この言葉が私の心にいちばん響きましたね。その後もずっと残りました。

 

白い服の人たちと部屋を出て行きかけた川端さんが、最後にもう一度、私に向かって、「進くん! 何か欲しいものはありますか」と聞いてくれました。すかさず「本が欲しいです」と答えたら、大きくうなずいていました。

 

それからしばらくして、療養所に木枠の箱がたくさん届いた。開けてみたらどの箱にも児童図書が詰まっていた。それを片っ端から読みました。本の中には夢がいっぱいあった。本がいろんな世界に連れて行ってくれた。そんなこともあって、もっと本を読みたい、もっといろんなことを知りたい、もっと勉強したいという思いが私のなかでどんどん大きくなっていったんですね。

 

    スター  スター  スター

 

<北条民雄と同じく、伊波敏男少年にとっても、信頼すべき大人(文学者)との出会いだったということです。ハンセン病への偏見のない川端康成という作家。

改めて、これまでのぼく自身の川端康成の理解が問い直されます。(3・2)>