takaki(「教育」の編集に共に関わっている)さんから、草野心平の資料をいただきました。ありがたい。

 「草野心平」という冊子には、第一詩集であった『第百階級』の自筆原稿と、詳細な年譜が載っています。

冊子の他には、草野心平記念文学館や生家のリーフレットなどもあります。一度訪問したいと思っているので、これは参考になります。

 
冊子のなかにあった『第百階級』の自筆原稿。『冬眠』、日本一短い詩。もう文字ですらありません。
『ぐりまの死』。鮮烈な愛の詩。子どものちょっとしたいたずらによって、命を奪われたぐりま。その死を嘆き悲しむるりだ。
 
年譜には心平の少年時代の写真もあります。左側の子。
「天衣無縫の少年時代」とありますが、この写真からもそれは伝わります。
 

草野心平は、福島県の石城郡上小川村(現在のいわき市小川町)の出身。takakiさんもいわき市の出身なので、帰省した折に草野心平に関する資料を手にして、ぼくへの土産にしてくれます。(福島の日本酒の時もありますが)

 

無名の賢治を世に知らしめた人物

草野心平は、宮沢賢治との深い因縁のある詩人です。賢治フリークのぼくにとっては、賢治を世に紹介した人としての”恩人”です。賢治が無名の人でしたが、心平のところに旧制中学時代の友人が、賢治の『春と修羅』の自費出版本をたまたま送ってくれました。その詩集を手にして、その価値を見抜き、世に強くそれを発信しました。賢治とは生涯一度も会ってもいないのに、花巻に行って農業をやろうとしたり(賢治の羅須地人協会は大農場だと思い込んでいた、あたかも小岩井農場みたいに。それは叶いませんでした)、一方、高村光太郎と賢治をつなぎ、1933年に賢治が亡くなった時には、初七日に花巻の宮沢家に赴き、そこで、膨大な賢治の詩や童話原稿に目を通しています。そのことで、更に賢治を世に知らしめようとしました。

 

秋津に住んでいた

もう一つ、草野心平に親近感を持つのは、1963年に東村山の秋津に越してきてから、亡くなるまでの25年間(1988年)そこに住みました。その地を「五光」と呼んで気にいったという面でも、秋津界隈をぶらりするぼくにとっては、とても近しい人物なのです。(心平の「光あまねし」の碑があります。図書喫茶「カンタカ」のすぐそばです。近くに住む宮崎駿さんと併せ、ここらを何度も歩いています)

 

『第百階級』について

「蛙の詩人」と呼ばれることになった草野心平の第一詩集は『第百階級』という、蛙を主人公にした詩集でした。

 

題名の「第百階級」については、「世界大百科事典」には、以下の説明があります。

【第1詩集《第百階級》(1928)は全編蛙を素材とする特異な詩集で,〈第百階級〉とは,どん底の階級を意味するとともに、階級史観ではとらえられない原初的生命意識やアナーキスティックな思想を表明した語である。】

 

草野心平のいう蛙とは、その当時社会で虐げられたものの象徴であるとします。人間で言えば「プロレタリア(労働者階級)」という事になります。昭和の初期は労働者の階級意識が高まっていた時期でした。小林多喜二などがそうですね。

心平は、階級意識に基づいた社会運動には関わりませんでしたが、虐げられた労働者に同情する心情を持っていました。
詩集の題名『第百階級』とは、数にも入れられない虐げられた集団=階級的存在としてのプロレタリアと蛙を重ねてイメージしたものです。

 

 

(『第百階級』より)

号外

草野心平

界隈でいちばん獰猛な縞蛇が殺された
田から田へ号外がつたはって
みんなの背中はよろこびに盛り上がった

ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ

ぬか雨の苗代に
蛾がふるへてゐる

ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ

蛙たちの喜びの鳴き声。オノマトペが力強い。

「光あまねし」の碑の前で、これらの詩を音読してこよう。

だれか一緒に行きますか。