2022年、今や教師という仕事のイメージは「暗闇」に近いものとして、多くの人たちに知られるようになっています。
学校に担任がいない状態があちこちで起き、教員採用試験に応募する人たちが激減しています。こんな記事もあります。
佐賀は年2回実施へ、「教員採用試験」倍率低下の深刻度 | 東洋経済education×ICT | 変わる学びの、新しいチカラに。 (toyokeizai.net)
ぼくのところにも、学校で教員の枠に「穴」が空いており、誰か紹介してくれないかの問い合わせも度々来ています。教育委員会では対応できず、個々の学校でさがすしかないのです。(ぼくは2月~3月にかけて、実際にある小学校に入りました。)
どうしてこんなことになっているのか。
この20年程の日本社会の有り様が、ついにこうした状況を生みだしました。
教育や福祉などへの相応の予算配当を削り、一部の富裕層にばかり目配りをし、国民へは自助を求め、困難の理由は自己責任論で片付けます。
「公」をできるだけ削り、「私」の部分を最大化する新自由主義的政策の結果です。(このしんじゆう主義ということば、ロに出すとシンジュー(心中)主義と聞こえます。イヤな響きです。)
ぼくの学校現場最後の年は2011~2012年。10年前でした。
すでに学校現場の困難はあちこちに浸透していました。
その中での思いを『らぶれたあ』に綴っています。
保護者と教師はパートナーとして子どもの幸せのために向きあう必要があるという自分の確信を発信したものです。
2011.10.06『らぶれたあ』105号より
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学校は、ベテラン層の大量退職の中で、若い教職員が多くなりました。経験の少ない若手を即戦力にするために、強制的な研修が強化されました。そして、10年前くらいから学校の指導の均質化を企図して、学校スタンダードというものがあちこちで導入されました。
この学校スタンダードを徹底すれば、経験の少ない教師でも指導ができるというわけです。
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標準的指導のはずが、基準とし全校をあげて一律徹底が図られていきます。コロナ禍でそれは一層強く指導することが求められました。同調圧力も強められました。
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