これまでこのシリーズで書いてきたように、学校現場の最後の1年間は”手のかかる”子どもたちとの奮闘の毎日でした。
でも、なぜか、「困ったなあ」と思うことはありませんでした。
きっとそれは、保護者の方たちの理解が広がっていたことを実感しながら子どもたちと向き合っていたからだと思います。ムナシサがないこと、これが大きかったんだなあ。
子どもたちとの活動であったことを学級通信『らぶれたあ』に率直に書き、伝えるようにようにしました。それは、それまでずっと続けてきたことでしたが、この最後の学年では、1年生の時のことを踏まえ、より突っ込んだ自分の思いを書くようにしよう考えました。(ぼくの書く学年通信もお知らせ通信にはしませんでした)
そこには当然難しさがありました。
固有名を出さないと、何を伝えたいのかよくわかりません。けれど、わははと笑えるようなことばかりではないので、書いたことが問題を生むかもしれないという懸念もあります。
無難に、曖昧に書く方がいいのか、そればかりを優先すると、何のために書いているのか自分でも書く意味がわからなくなります。
そこで、時々、「そもそもどうなのか」を考える、そんな『らぶれたあ』も書くことにしました。
子どものしていることへの洞察と、自分が教師としてどうすべきかの省察の文章です。
子どもへの眼差しはどうだったのか、そのことはどう変わって行くのか、そこで考えたことを綴りました。以下の『らぶれたあ』104号はそれになります。
きっかけは、前日の学年合同の保護者の方たちの読み聞かせ会での子どもたちの姿を目の当たりにして考えたことでした。
1学期から学年合同で子どもたちと向き合うことを大事にしていたので、保護者の方たちもそれを受けとめての活動をしていました。(ここでの「学年合同」とは安易な同調を求めることではありません。クラス、各担任は自分のやり方を尊重しあうことを前提に、目指す方向は確かめ合うという意味です。)
『らぶれたあ』104号 2011.10.05 より
子どもの問題としないこと
「困った子は 困っている子」
――読み聞かせに集中する子どもたち
「困った子」という言い方がされることがあります。この言い方への疑問から、視点の転換を図らなければならないとして、「困った子は 困っている子」ということばが広がりました。
子どもたちの発達援助者である教員は、「困った」と嘆いても状況は変えられません。その子(たち)のなかにどのような困難さがあるのかをつかみ、それを抱えている子ども(たち)の辛さを共感して受け止めること、ここからしか教員の仕事は始められません。「困った子」として、叱責するなど、発達援助職としては、むしろ有害でしょう。
子どもへの洞察、自らの省察
「困っている子」と言い換えてみると、すべきことを探求することになります。
教員には対象(子どもたち)への深い洞察と、自らの行っていることへの省察こそが求められています。
「困った子」という言い方には、どこか冷淡さが付きまとっているように思います。
ことばの問題ではなく、この仕事の深いところに存在する問題を繊細に受け止めることが必要です。
「聴けない子たち」→「聴かない子たち」
子どもたちのことが「聴けない子たち」とされることがあります。
この言い方にも、先に例に挙げた「困った子」と似た問題があると思います。
昨日は、お母さん方11人が見えて、学年全体の本の読み聞かせをしていただきました。その時、子どもたちはすごく集中していました。「聴けない子どもたち」ではありませんでした。
その場でぼくは考えました。子どもたちはかつては「聴けない子たち」とされていましたが、そうではなくて「聴かない子たち」だったのだと。
大型絵本を用意し、読みの工夫があり、効果音楽(K先生のピアノ)があれば、子どもたちは集中するのです。
子どもたちが「聴けない」とされてきたのは、聴きたくなるような内容の語り方がされていないからではなかったのか。子どもたちはとても正直なものです。つまらない話には集中しません。子どもたちの主体を尊重すべきで、つまらないと思ったものは聴かないのだと考えています。
子どもたちが「聴かない」から「聴こうとする」へ変わっていくには「聴くのは当たり前だ」というゴーマンな私たちの姿勢を転換する必要があります。聴きたくなるような内容と語り口をぼく自身ができるようになることです。
「オモシロい」「ふ~ん、なるほど」「もっと話してよ」と子どもたちに思ってもらえることは、教師が子どもに阿(おもね)ることではありません。それは、子どもたちと同じ地平で生きるという意味です。子どもたちの示す反応、態度は、ぼくの考えるべきことを教えてくれる”先生”です。
104号の次の105号には、教師の仕事の意味について考えたことを綴っています。
「サンニセンセイは、こんなこと考えてんだ」――それを知ってもらうことも『らぶれたあ』を書く意味でした。(つづく)