日の樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』は.、1972年11月8日の早大一文キャンパス内での革マル派によるリンチ殺人事件を、そのときの自治会会民主化に立ち向かった中心人物の、真実を明らかにしたいという自らの体験と関係者の証言を追求する記録でした。素晴らしい著作です。
 
早稲田大学の文学部キャンパス(一文・二文)は、馬場下交差点脇にあり、本部キャンパスとは、歩くと4~5分離れています。
ここに入るときは、門ーヶ所を通ることになり、その当時自治会を掌握していた革マル派の活動家が門の出入りをチェックし、自らの主張に反対していると見なす人々を構内に入れないようにしていました。
そこでの威圧・恫喝には暴力も伴っていました。それは彼らの「正義」がついてまわっていました。
 
自分たちの主張以外を認めないというファッショ的支配は、学生運動の暴力化にあわせ、当時年々強まっていました。
革マル派にすれば、自分たちだけが正しく、他党派やそれに共感する連中は、自治会の破壊者、敵対者という位置付けでしたから、暴力的排除は当然という論理でした。
 
一般社会では通用するはずもない暴力行為が、大学内では「革命的」言辞によって正当化されました。
本部キャンパスは、まだ出入り口も多く、その暴力支配は十分には貫抜かれていませんでしたが。
 
間の第二文学部での暴力支配は、強力なものでした。その二文の学生であった山村政明さんは、暴力行為に身を挺して抗議した学生のひとりでした。
この遺稿集『いのち燃えつきるとも』の著者、山村さんは、当初第一文学部に入学しましたが、経済的な困窮のため、途中第二文学部に転部しています。
 
在日の朝鮮人・韓国人名の染政明を、家族の日本帰化によって山村政明と改名しています。しかし民族問題への関心は強く、梁政明の名で文学作品を書く若者でした。
高校卒業後、いったん就職していましたが、文学への思い絶ちがたく、早大一文に入学しています。
彼はキリスト教にも入信し、自らの生も真摯に追求していました。
 
山村さんは、1969年、当時の一文、二文の革マル派の自治会運営の非民主的運営に異義を唱えて、学生大会において4度の大会議長に立候補し、選ばれています。彼の強い気持ちが多くの一般学生に支持されたからです。
このことは、暴力支配を行う革マル派のもとでは、大変な勇気のいることでした。
実際、山村政明さんは数度の暴行を受け重傷を負っています。ついにはキャンパス内に入ることすら出来なくなりました。
彼の仲間たちもまた、多くの人が傷つき、沈黙を強いられました。キャンパス内に入ることができなかった学生は多数いました。(昨日のブログで紹介した第一文学部の小此鬼則子さんもその一人でした。)
 
川口大三郎さんのリンチ殺害(72年11月8日)の2年前、1970年10月6日早朝、文字部キャンパスを道一つへだてた穴八幡神社の境内で、山村政明さんは、「家族への遺書」と、「早大二文当局およびすべてのニ文字友に訴える」とする「抗議・嘆願書」を残して、焼身自殺をしました。
 
のころぼくは早稲田の本部キャンパスにある教育学部の2年生でした。
1969年、大学入学してすぐに当時、問題になっていた「大学立法」法案への反対の意思をストライキで示すという理由で、大学はストライキが決行され、それに対して、大学はロックアウトして一切の授業がなくなりました。早大全共闘が結成され、そのグループが一部校舎を占拠していました。
革マル派は、文学部を中心にしてこの早大全共闘と対峙し、時折暴力的な対決をしていました。
 
法学部は、民青系の活動家が多く、革マル派はこの法学部自治会への攻撃を計画していました。
4月下旬、まだ大学の何たるかもよくわからない1年生のぼくは、級友のSくんと、本部前の大隈銅像から少し離れた場所で、疑問を持って見守っていました。もう夜になり、キャンパスは街灯の灯りだけでした。
革マル派が、法学部の校舎に襲撃をかけるという動きを目の当たりにして、そういうことが許されるんだろうか、当時の様々な党派が自分の「戦果」を都合よくビラで報じていたので、本当かどうか、自分の目で見なければという思いがあったからです。
 
突然、革マル派の一人が“ゲバ棒”を振りかざして、ぼくたち二人に襲い掛かってきました。突然のことでしたので、ぼくは頭をたたき割られ、鮮血が噴き出しました。状況を考えると、その学生は、ぼくらを襲うのではなく、背にしていた街灯をたたき割ろうとしていたようなのだけれど、そばにいる人間のことなどお構いなしだったのでしょう。
鮮血の出ているぼくなど見向きもせず、行ってしまったのですから。
ハンカチで頭の傷を押さえ、大学正門近くの整形外科にSくんと走りこみました。数針縫う頭部裂傷でした。
 
まったく党派に関係ないぼくに対する暴力を通じて、彼らの主張の如何にかかわらず、その暴力性の本質を許せないと思いました。
その後、早稲田での革マル派の暴力的な行動に対して、ぼくは恐怖を持ちながらも、理不尽さに声を上げることもありました。その結果、袋叩きにされたこともあります。
 
村政明さんの自殺は、ぼくにとっては、重なる思いも多く、衝撃を受けました。
以下に、この本に紹介されている「抗議・嘆願書」を紹介します。
彼の死の直後、この「抗議・嘆願書」を悔しさの中で読んだことを思い出します。
 
樋田毅さんが抱え続けた川口大三郎さんの死、その2年前にぼくは山村政明さんの焼身自殺という形での死を抱えてきました。
 
樋田さんの本を読むことは、山村政明さんの死を思い出し、暴力に取り込まれた人間たちの虚しさを思い出し、さらに心の奥底の当時の恐怖がトラウマのようになり、とてもつらいものでした。もちろん、川口大三郎くんの無残なリンチ死をめぐっての日々もまざまざと思い出しました。
 
山村政明さんの「抗議・嘆願書」を掲載します。
当時の早大当局(村井総長)は、革マル派を都合よく利用していました。そのもとで、こんなにもむごいことが続いていても、「早稲田」というブランドが守られれば、大したことではなかったのです。
だから、山村さんの自死は、川口くんのリンチ殺人を止めることにはならなかったのです。
 
「暴力」の前に私たちは無力なのか。ぼくが学生時代からずっと考え続けてきたことです。
もう一度、山村政明さんにの「抗議・嘆願書」を読んでおきたい。
 

 

 
 
 
 
くは、いまだに「青春の地」として早稲田に行くことには躊躇いがあります。早稲田の卒業生でもある妻や娘は「校友会」に登録していますが、ぼくは入会などしません。
もちろん、今の早稲田には、あのころの暴力支配はないし、もう事件そのものを知る人もいないと言いますが。
(どうしても、書いておかなければと思い綴った記事です。小此鬼則子さんのことを忘れないためにも。)