これから紹介するのは、ハンセン病資料館でいただいた資料です。

コロナ感染対策として、現在、ハンセン病資料館は、午前10時~11時30分、午後13時30分~15時の入館に限られています。それも10名まで。
 
事前に予約が必要です。予約状況も分かります。ホームページから入って確認し、10人に充たない場合は申し込めます(自分以外のグループメンバーも)。電話でも可です。

ハンセン病資料館は、展示室が大きく3つに区切られています。
1.歴史展示
2.癩療養所
3.生きぬいた証
 
もらった資料を紹介します。3回に分けて。
今回は、「1.歴史展示」です。
 
 
この感染症は、「業病(ごうびょう)」や「天刑病(てんけいびょう」と呼び、一般的には「癩病(らいびょう)」と呼ばれてきました。神仏の罰だとされて、宿痾とされてきました。しかし、ハンセン病の歴史を見れば、江戸間での社会での差別とは違う形で、近代以降の歴史の中で、差別はより拡大されてきました。国家的な体制で差別を拡大、強化してきました。
 
幕末から明治にかけて、コレラなどの感染病が何度か流行します。4隻の黒船来航の後、1858年黒船ミシシッピ号の船員が日本にコレラを持ち込みました。3万人もの死者を出し、そのことがきっかけで、攘夷の機運がひろがります。外国人が「疫病をもちこんだ」としたわけです。
その後、明治の初めまで、数度の感染症のパンデミックがあり、「公衆衛生」の芽生えが見られます。
しかし、実際に患者救済に当ったのは日本での布教に当ったキリスト者達でした。仏教たちもいます。
ハンナリデルなど外国から来た宗教者の紹介の展示もあります。この人たちは、キリスト教の布教に来たわけですが、日本で見捨てられたハンセン病者の救済に尽力しています。
 
患者収容のために全国に五カ所の「病院」(療養所)が設置されました。実際は隔離です。
きっかけの事件は、英国の公使館前に行き倒れたハンセン病者の対応を、近代化を急ぐ日本での措置でした。「隠してしまう」ーーその意図が強くありました。患者たちの人権は見捨てられています。
人権を配慮しない「ひとつの小さな国」がつくられました。懲戒検束して、監房という牢屋にとじこめることが行なわれました。
断種、中絶を強いました。
職員、看護に当る人などの数は抑えられ、患者が「小さな国」の維持者として働かされました。
この作業によって、障がいがひどくなっています。
例えば、ハンセン病者の病状は末端の神経を冒していき、痛みなど感じなくなります。その患者たちに大量の洗濯作業が強いられました。重症化すると体液が出るので、大量の包帯が必要でした。洗濯は洗濯板でごしごし洗いました。痛みを感じていない手指が、それによって損傷していきました。
多くの障害は、過酷な生活によってもたらされたものです。
 
その隔離をさあらに強める動きの中で(戦時体制の強化、優生思想の広がり)、強力な隔離法が決められました。すべての感染病者の強制隔離、絶対隔離、終生隔離です。「癩予防法」です。
徹底するために、密告が奨励され、より過酷な収容生活が強いられていきます。
患者本人だけでなく、家族への差別も一段と強まりました。
 
1945年、日本の戦争遂行体制が敗北し、日本の民主化が進みましたが、それは不十分なものでした。
基本的人権の尊重を謳う日本国憲法の成立下でも、ハンセン病者の人権は蔑ろにされたままでした。
「プロミン」という治療薬が登場し、患者たちは希望を持ちました。しかし、社会の「差別」の壁は大きく、その厚い壁を打ち破る患者たち自身の運動が展開されます。
 
しかし、ハンセン病者(元患者)たちを隔離する法律は残ったままでした。患者たちを差別の存在する社会に放り出してよいのかというような議論もありました。
しかし、隔離を当然とする「らい予防法」の廃止を求める裁判が起こされました。
 
裁判で勝利しても、課題は残っています。子どもや孫という家族が居ません。高齢化されています。(入所者の平均年齢が86歳だといいます)。
体に重い障がいの残った人も多く、ひとりで生活することが困難です。
 
日本の国のハンセン病者への差別に、多くの人の無関心があったことがあります。かつては積極的に差別に加担していた事もあります。
深刻な人権侵害を知らないという人が増えています。だからこそ、いま、丁寧に学ぶ意味があります。
 
あと2回、資料紹介をします。
 
      雷雷雷雷雷
なごみ食堂に行き、お願いして「山下道輔さんのお話」という冊子を貸してもらいました。松本馨さん、谺雄二さんなどのことを語っている聞き書きです。心して読み始めています。