今回の記事で終わりです。3回目に3つの中見出し記事。

withコロナとかpostコロナなどと言われる中に、かつての自分の実践を、ブログに敢えて掲載するのは、実は、コロナ禍以前から抱えていた問題が、露わになったのではないかと思うからです。そうだとすれば、かつてのこういう実践を知ってもらうことにも意味があるのではないかと考えました。ここにいくらかの教訓があるのではないか。

・保護者協同をどうつくるか、

・自主的な実践の重要さ、

・学びのありよう、学校とは子どもや,保護者や、教師などにとってどのような意味を持つか、

・学級通信・学年通信の位置づけなど。

 

本日読んでいた石井英真さんの「未来の学校」にも教えられたwithコロナの実践について考えるべきことと重なります。この本のなかでは、日本の学校、教育の持っていた重要な機能の見直しが大きな柱にもなっています。ポスト・コロナの学校は、日本の教師たちがつくってきたものを精算することではないとしていました。大いに共感しました。

 

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⑤  教室で出会った子どもたち

 4月の始業式の日、出会ったクラスの子どもたちは男の子20人、女の子11人。前担任たちからそれぞれの子どもたちについて聴き取っていたことを思い出しながら子どもたちの名前を呼んでいきました。

 多くの子どもたちが困難を抱えた1年間でした。2年生でのクラス替えで、特に気になっていたのは次の子たちでした。

 

・ 「ブッコロス!」が口癖のHくん<口、。憎憎しげににらみつける。教師に対してもパンチ、キックをくり出す。身体中に憎悪を溜めているかのようだ。口、憎憎しげににらみつける。教師に対してもパンチ、キックをくり出す。身体中に憎悪を溜めているかのようだ。この怒りの根はどうやら家庭での育ちのなかにあるらしい。1年生の時は毎日学校からの連絡が来て、母親はそれに追いつめられていを歪めた。この怒りの根はどうやら家庭での育ちのなかにあるらしい。1年生の時は毎日学校からの連絡が来て、母親はそれに追いつめられていを歪めた。責めないで、ゆっくりと聴き取らねばならない。>

 

・  Mくんは昨年11月以来、5ヶ月ぶりの登校だ。<思うようにならぬと、周りの誰彼なしに手を出し、制止されると一層感情が昂ぶってしまう。隣の子の髪の毛を一気に20本以上引き抜いたり、はさみで切り取ったりしたという。困り果てた前担任は、管理職に対応を任せるが、他の保護者をも巻き込む不信の中でのやりとりの結果、両親は「クラス替えの4月まで学校を休ませる」と宣言してしまった。5ヶ月ぶり学校生活。保護者の強い学校不信を解きほぐさねばならない。>

 

・  Aくんは発達に課題を抱える子。<状況にかかわりなく突如自分の思うことをしゃべだし、行動を始める。周りの子との関係を築くことが難しく、同じクラスだったHくんとは度々ぶつかったという。母親はひとりっ子のAくんの成育に強い不安を持つ。母親の不安に寄り添うこと、共に考えようと思う。>

 

・  Yくんは内面世界に引きこもることの多い子だ。<時間があればノートに絵を描く。その絵は低学年の子とは思えない立体感あふれるものですばらしい表現力をしめす。内面世界の不安をこうして確かめているのだろう。父親によれば、こうしたノートが数十冊もあるということ。けれど、自信無げに視線をあちこちに泳がせている。乳幼児期に母親(今は離婚した)からの虐待を受けていたらしく、精神的に不安症状がでていて、服薬を続けている。安心の場所を拡げたいと思う。そしてすばらしい絵の世界を周りの子に向けて開いていこう。>

 

・  Kさんは母親と離れられない。<毎朝、学校までは一緒に来ても、母親が仕事に行こうとすると「ママー!」と泣き叫ぶ。<離婚し、実家で暮らしている母親も仕事に行けなくなると、困ると不安いっぱいである。親子で共振しあって過ごしているかのようだ。子どものナイーブさを受けとめるメッセージを送りたい。母親のケアも必要だと思う。>

 

 

 5人の子どもたちのことを上げましたが、それ以外に子どもたちすべてが“荒れ”のなかにいたために、それぞれに不安を持ち、緊張してこの教室にいました。一人ひとりの“物語”をつくり、それを綴り、保護者たちに届けねばなりません。学級通信『らぶれたあ』は、一層固有名あふれるものにすること、そして、子どもの可愛さ、けなげさを書いて発信しようと考えました。

 

⑥  親たちの安心=子どもの安心

 クラスの子だけを見てもケアの必要な子たちがたくさんいます。学年の3クラスにはさらに家庭の数だけ困難さがあるのだから、学年全体に目を向ける中でしか希望は見えてこないと、始業式の日から私たちの決意を伝える活動に取り組みました。

 

 始業式直後の学年集会では手話ソング「♪友だち」を歌い、詩「はなひらく」(工藤直子)を読みあいました。これらの表現活動を通して内面にはたらきかけること、ともすると粗暴になりがちな“元気さ”ではないやわらかさを求めました。乱暴な男の子たちの前でおとなしくしていた女の子たちが意外なほど声を張ってくれました。

 

 4日目には「おにぎりミニ遠足」です。学校脇の川原に自分で握ったおにぎりを持ち、あそびます。集団あそび、歌あそび、よもぎ摘み(後日よもぎカップケーキを作った)をする様子を、学年通信の呼びかけで集まった40人以上の母親たちが笑顔で見守りました。

 

 9日目は朝の時間に学年合同の親たちによる本の読み聞かせでした。学年担任のKさんが電子オルガンで効果音を入れてくれました。引き続き1時間目にオープンな合同授業、ことばあそびの楽しさを体感する授業を行いました。「そうだ村の村長さん」「大人マーチ」(共に阪田寛夫作)、「ヤダくん」(小野ルミ作)のユーモアをあそびました。朝早い時間にもかかわらず30人をこえる母親たちが参加しました。期待がじんわりと広がっていくのを感じていました。

 

 こどもたちが声を合わせ、共に楽しんでいる姿に、何人もの母親たちが「去年はいったい何だったのでしょうか」と語りかけてきました。

 1年生の時には「話が聴けない子どもたちだから」とか、「親が参観すると興奮して、落ち着かなくなるから」との理由で、保護者参加の機会はつくらない対応をするように管理職からの指示があったと聞きました。

 今年度は逆の対応をしています。親の安心と子どもの安心は一体なのだから、いつでも教室へどうぞ、と教室を開いています。

 

 私たち教師の思いが伝わらないからこそ生まれやすい保護者の学校、教師不信。それをなくすには本当の声を発信する必要があると考え、週1回以上のペースで学年通信を綴っています。単なるお知らせではありません。親たちは私たちの声に応える形で様々な機会に参加してくれています。

 2回の授業参観、6月土曜夕方の親子交流会、7月の川原でのバーベキューと楽しい交流をつくってきました。

 

⑦  眼差しを変える

 子どもたちの姿を目にする機会が増える中で「子どもたちがとても変わった」と保護者の方たちから声をかけられます。しかし私はそう楽観はしていません。それは私たちのリードのもとでは落ち着いていても、最も大切な教室での学びへの手応えがまだ不十分だったし、気を緩めると子どもたちの攻撃性が突き出てくるからです。

 

 人(子どもも)は簡単には変わりません。教師の力など実際の子どもの抱える困難さの前では、ささやかなものだと思っています。自らが変わろうとする時の手助け(ケア)ができるだけです。

 この1学期、私に必要だったのは私が子どもへの眼差しを変えることでした。それを気づかせてくれたことのひとつにヨウイチの母のことばがありました。

 

「Hくんと同じクラスにしてくれてありがとうございます。Hくんはやさしい子です。人と関わることの苦手な息子を初めて家の外へ連れ出してくれたんです。」 

 Hくんがやさしい!? 周りじゅうからは、Hくんはコマッタ子という声ばかりだったのに、この話にとても驚きました。乱暴で他の子どもたちと遊ぶことが出来なかったHくんは、Yくんを遊び相手に選んだのです。友だちのいないYくんの母親にとっては、誘いに来てくれるHくんをありがたいと思っていました。もっと深い見方をしなければならないと考えさせられました。。

 

 それでもさまざまな場面で子どもたちはとても手がかかります。

「弱いものいじめをしない」という話をすると、それを守れずちょっとはみ出た子を数人で取り囲み、「正義」(先生のことば)をたてに悪口、罵詈雑言を浴びせます。昨年、暴れるたびに職員室に連れて行かれたMくんは、自分はとてもそれを嫌がったはずなのに「オマエなんか職員室に行って叱られて来い」という始末。

 けれど私はここに子どもの深い傷つきを見ます。だから責めるのではなくこう語ります。

「イジワルはブーメラン。自分がしたイジワルは自分に返ってくる。でもやさしさもブーメランなんだから、やさしさのブーメランを投げようね」と。

 

 2学期に入ったばかりの今、進行中の子どもとの日々がどう変わっていくのか、私にもわかりません。

 1学期最後の日の学級通信に私はこう綴りました。

<担任3人たちもよくやったなあ。子どもたちの日々で思い出すのはコマッタコトの方が多いけれど、それでも今は子どもたちがとても愛おしいと思います>

 愛おしい思いを持って明日もあれこれと思わぬことをする“魅力的な”子どもたちに向き合います。大らかな思いこそ大切です。

 

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今回の記事で紹介も終了です。

コロナ禍に入ったときから、ぼくには、すべきことが見えなくなっていた時期があります。ちょうど3月をもって、2つの大学での仕事も終わったところでした。

外に出ることが出来なくなり、発信する必要性ももうないのではと、気持ちが萎えてきていました。かつてのことはかなり書いてきたけれど、「過去のこと」を紹介する意味は失せたと思いだしていました。

 

しかし、コロナ禍の現場からは、却って、切実な悩みが寄せられ、度々現場の人たちから実践データを求める声が来ました。若いお人たちを中心に相談の連絡も来てサポートを求められてました。

卒業論文の相談に3人。制限のかかったハンセン病資料館案内へも8回。

昨日は、学生2人と立川で会い様々な相談。

 

先週末も突然のメールが来ました。

<初めてメールを送らさせていただきます。現在、K県H市で教員をしているIと申します。

10数年前に都留文科大学で三二先生の講義を受けて以来、ずっと『さんにゴリラのらぶれたあ』も拝見させていただいております。

今年度、初めて2年生を担任することになり、いろいろと試行錯誤して教育活動を行っております。昨年度、学級運営が困難になってしまったクラスということもあり、子どもたちが心弾んで取り組める授業が必須だと考えています。

まもなく、『お手紙』の授業が始まります。もしお手数でなければ、三二先生の実践データを送っていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。>

すぐさま『お手紙』のデータを送りました。ぼくが、退職する前にゲストとして呼ばれたときに出会っていた人ですね。ぼくの方は全く知らないので、驚きました。一度、どこかであってお話したいと思いました。

<早速のご返信ありがとうございます。

実は昨日から九州の友人の挙式に出席するために福岡に来ております。

お昼の便で関東に戻るので、飛行機の中でじっくり読ませていただきます。

三二先生の若者支援には頭が下がります。私も中堅を担う年齢になったきたので、自分にできることをどんどん発信していきたいと思います。

またご相談させてください。

最近随分と寒くなってきましたので、どうかお身体を大切になさってください。>

まだまだ、発信する意味はあるのだと、ぼくの方が元気をもらいました。やってきたことは「種を蒔く」仕事なのだと自分に言い聞かせ、もう少しブログに書こうと思います。

今月、大学でのゲストでO女子大2回の授業と、学生のみなさんを5回に分けてハンセン病資料館に案内します。(10人までの制限中なので、こういうことになりました。)