東京から水戸に戻ったばかりのミキさん(自主ゼミメンバー、都留文大卒業後、茨城大に編入)から、「高熱9度3分」「体が痛い」という連絡が来て、心配していたら、その後、「インフルエンザでした(´;ω;`)」というライン。あらあら、大変です。

学生、若い教師たちの一人暮らしは、こうした場合危険です。高熱でも、食事をつくったりしてくれる人もいないからです。

 

「水戸の母」(堀口さん)に連絡して、様子を見てもらうように頼みました。ミキさん、自分からの連絡には遠慮があります。

直ぐに動いてくれ、アパートに様子を見に行って食事も届けてくださいました。お連れ合いやおばあちゃんも協力してくれました。

おばあちゃんの作ったけんちん汁に、ミキさん、涙、涙。おいしかったというけれど、涙の味も混じっているかもね。

昨年のアパート探しの時から、更に水戸での生活が始まってからも、「水戸の母」には本当にお世話になっています。堀口家の娘そのものみたいです。

(ほかの卒業した人たち、どうしているんだろう?こういうひととつながっていればいいんだけれど。)

 

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ミキさんは三重県の出身。出身高校は宇治山田高校だということでした。(ぼくは三重県には足を踏み入れたことがありません)

宇治山田という名称はよく聞くので、調べてみました。

この高校は、現在の伊勢市にあり、120年の歴史があります。もともとこの地域は「宇治山田」(宇治地域と山田地域)と呼ばれていました。「伊勢市」はのちの呼び方(1955年から)です。高校名や駅名に名前を残しています。

 

卒業生には、梶井基次郎、江口喚、小津安二郎などがいます。なかなかのメンバーです。気骨のある人たち。

さらにその卒業生の中に竹内浩三の名前を発見しました。(高畑勲さんは、旧宇治山田市(現在は伊勢市)生まれ、高校は違いますが)

 

 
 
 
 

竹内浩三は若き詩人。1945年(大正10年)生まれ。学徒動員で、戦場に送られ、1945年フィリピンのルソン島で戦死しています。23歳。(実際は生死不明とされます)

映画監督になろうと、1940年日本大学専門部映画科に入学。宇治山田中学(旧制)時代から文学雑誌を友人とつくっていました。

 

その反戦の思い。

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


苔いじらしや あわれや兵隊の死ぬるや
こらえきれないさびしさや
なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ
白い箱にて 故国をながめる
音もなく なにもない 骨
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や 女のみだしなみが大切で
骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨は聞きたかった

絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
それはなかった
がらがらどんどん事務と常識が流れていた
骨は骨として崇められた
骨は チンチン音を立てて粉になった


ああ 戦場やあわれ
故国の風は 骨を吹きとばした
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった
なんにもないところで
骨は なんにもなしになった.
 
 

冬に死す 竹内浩三


蛾が

静かに障子の桟(さん)からおちたよ

死んだんだね
 

なにもしなかったぼくは

こうして

なにもせずに

死んでゆくよ

ひとりで

生殖もしなかったの

寒くってね

 

なんにもしたくなかったの

死んでゆくよ

ひとりで

 

なんにもしなかったから

ひとは すぐぼくのことを

忘れてしまうだろう
いいの ぼくは

死んでゆくよ

ひとりで

こごえた蛾みたいに

 (『竹内浩三全作品集 日本が見えない』全1巻、藤原書店刊より)

 

 

若い魂を、踏みにじる戦争。命を奪った戦争を憎みます。

伊勢神宮に行こうという気はありませんが、竹内浩三の生きていた証を見つけに宇治山田に行ってみたいと思います。

(母昨年亡くなった母と同い年だったんだ。)