3月です。我が家の小さな雛たち。

 

 

抒情即興    木下杢太郎

あたたかい日 あかるい日

この晴れた秋空高い由比ヶ浜

沙の上に臥しまろぶ
身は熱に口

かわき
心は杳き神の伊吹きに口かわく
あたたかい沙のやはらかさ こまやかさ
天恵ふかい太陽は
大海にぴかぴか光る宝玉をばら撒いて
空に眩しい銀網をいつぱいに張りつめ
波にくちつけ 沙にまろぶ

 

兩國

兩國の橋の下へかかりや
大船は檣を倒すよ、
やあれそれ船頭が懸聲をするよ。
五月五日のしつとりと
肌に冷き河の風、
四ツ目から來る早船の緩かな艪拍子や、
牡丹を染めた袢纏の蝶蝶が波にもまるる。

灘の美酒、菊正宗、
薄玻璃の杯へなつかしい香を盛つて
西洋料理舗の二階から
ぼんやりとした入日空、
夢の國技館の圓屋根こえて
遠く飛ぶ鳥の、夕鳥の影を見れば
なぜか心のみだるる。

 

 

珈琲 「食後の唄」(明治43年、1910年)

 

今しがた

 啜(すす)つて置いた

 MOKKA(もか) のにほひがまだ何處(どこ)やらに

 残りゐるゆゑうら悲し

 曇った空に

 時時(ときどき)は雨さへけぶる五月の夜の冷さに

 黄いろくにじむ華電気(はなでんき)

 酒宴のあとの雑談の

 やや狂ほしき情操(じょうそう)の、

 さりとて別に是といふ故もなけれど

 うら懐(なつか)しく、

 何となく古き恋などかたらまほしく、

 凝(じっ)として居るけだるさに、

 当てもなく見入れば白き食卓の

 磁(じ)の花瓶(はなかめ)にほのぼのと薄紅の牡丹の花。

 珈琲(かふえ)、珈琲(かふえ)、苦い珈琲(かふえ)。

 注:( )内は振り仮名で、ルビで表されています。

 

 

木下杢太郎は、若き詩人であり、北原白秋と並ぶ耽美派と称せられたという。「パンの会」にそのころの詩人、芸術志向の若者たちが集ったといいます。

 

パンの会(ぱんのかい)は明治末期の青年文芸・美術家の懇談会。

「パン」はギリシア神話に登場する牧神るで、享楽の神でもある。1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に因むものだという。

20代の芸術家たちが中心となり、浪漫派の新芸術を語り合う目的で出発し、東京をパリに、大川(隅田川)をパリのセーヌ川に見立て、月に数回、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まり、青春放埓の宴を続けた。パンの会は反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場となり、1908年末から1913年頃まで続いた。(wikipediaより)

<パンの会の様子。木下杢太郎からの聞き取りにより木村荘八が描いたもの

 

木下杢太郎は本名を太田正雄といいます。

彼の写真はハンセン病資料館で何度も見ました。皮膚科の医者であり、ハンセン病の研究、治療に当たった人だったからです。

Masao Ohta1934.jpg

 

伊東市のホームページに以下のような記事がありました。伊東市は木下杢太郎の故郷です。「木下杢太郎記念館」があるそうなので、何かの機会に行ってみたいと思います。

太田正雄とハンセン病

伝染病研究所にて:矢印が杢太郎

ハンセン病は、らい菌に感染することによって起こる感染症です。ただし、感染力は非常に弱く、通常はほとんど感染しません。また、感染しても発病することはまれで、現在では適切な治療を行なえば確実に治る病気です。
 ハンセン病は発症すると末梢神経がマヒしたり、皮膚に発疹など様々な症状が現れたりします。また、手足や顔など体の一部が変形する後遺症が残ることもあり、患者は世界的に長く差別され、隔離されてきました。特に、日本においては治療法が確立された後にも「らい予防法」によって強制隔離が続けられ、平成8(1996)年に「らい予防法」が廃止された今も差別と偏見に苦しむ患者の方々がいます。

 太田正雄がハンセン病研究に取り組んでいた頃、ハンセン病はまだ治療法が確立されておらず、不治の病とされ、患者は強制的に隔離されていました。しかし、太田正雄はこの病気を可治の病と考え、症状の程度にもよるが基本的に隔離は不要と唱えました。そして、実際にハンセン病の治療法を開発するため、伝染病研究所においてらい菌の培養および動物接種実験を繰り返しました。しかし、らい菌の培養は非常に難しく、現在でも人工培地では成功していません。太田正雄はこの困難な実験をあきらめることなく続けましたが、昭和20(1945)年、治療法の確立を見ることなく60歳で亡くなりました。

 

 

ぼくは木下杢太郎としての詩作にも関心はありますが、その彼が、詩作を止め、医者として生きたことの方により強い関心があります。

 

杢太郎は、森鴎外のことをmaȋtre(巨匠)をと呼んで慕いました。鴎外の死後(60歳で亡くなっています。杢太郎も同じ年齢で亡くなっています。)「鴎外は過去ではなく未来への出発点である」と評しています。

後年、医者・太田正雄として生きたのは、進路に迷った時に医者でもあった鴎外に医者になることを勧められたことに深くかかわっているようです。

 

なお、太田正雄の墓は、我が家の近くの多磨霊園にあります。ここも訪ねてみようと思います。

「歴史が眠る多磨霊園」というサイトに木下杢太郎(太田正雄)の記述がありました。

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kinoshita_m.html

 

*正雄は医者になることを嫌い、絵描きになりたい、或いは文学者になりたいと反抗し、進路に悩むが、'12森鴎外の勧めもあり医学に就くことになった。

*癩病の世界的権威とされる。

*'38眼上顎部青色母斑を独立疾患として発表。これは太田母斑という名でも呼ばれる。目の周りから頬にかけで現れるあざであり、色は青以外に褐色や茶色のものもある。

*水虫が白癬菌でおこる皮膚病であることを日本で最初に証明したのも正雄である。

*ハンセン氏病治療のパイオニアでもある。当時の日本では隔離対策が主流であった中で、正雄は化学療法の確立を目指し研究を行っていた。 この研究は未完にて終わったため、その業績を知る人が少ないが、2004(H16)『ユマニテの人 木下杢太郎とハンセン病』(成田稔著、日本医事新報社)という本が刊行され、正雄の皮膚科・細菌学者としてのハンセン病に関する研究を詳細にとりあげられ再評価された

 

隔離対策中心の治療に異を唱えていたということを心に刻みたい。昨日読んでいた本。

強制隔離の「犯罪」を怒りながら読んでいました。太田正雄の思いを感じながら。

 

自分の問題関心ばかりの記事。長々とすみません。