松谷みよ子さんが亡くなられました。大学卒業し てすぐに日本児童文学者協会(児文協)の事務局で仕事をしていた
ので、松谷さんともお話させていただくことがありました。ぼくは一介の事務局員、松谷さんはもう高名な作家でしたから、あくまで仕事上の事だけでした。
昨年は古田足日さんも亡くなり、当時お世話になった方の多くが鬼籍に入られていて、ぼくにとっては「児文協」は遠くになりにけり、です。

あのころぼくは若かった~

かつて、児文協の発行していた冊子に文章を書いたことがありました。

1994年の3月の事でした。『事務局員物語』というシリーズがあり、その5回目でした。
「百人町物語(その2)」の「その2」というのは、同時期に事務局員だった林(小此鬼)則子さん(大学時代からの友人)が「その1」を書いたのを受けてのことです。その林さんも、その後編集者として活躍していましたが、10年ほど前に病気のために亡くなりました。早すぎる。

「百人町物語(その2)」を2回に分けて連載します。

          椅子         コーヒー          椅子

  百人町物語(その2)……<上>
        霜村 三二

 前々号の中島さん、前号の林さんと続けば私の出番なんかないものと高をくくっていたら、百人町時代(*当時の事務局のあった新宿区百人町)をもっと語れとの由。蛇足的にいくつかのことを書きとめてみます。
 私が事務局に勤めていたのは、林さんの入局より三か月早い1974年1月から77年3月まででした。
 
 中島さんたちのいた池袋の「風俗ビル」内の事務局は、“乙女”たちの強い希望もあって(同ビル内で暴力団の抗争もあったとか、また彼女らがそこの風俗業で働いているかのように思われる懸念)、市ヶ谷薬王寺町のマンションに移転しています。しかし、その薬王寺のマンションも手狭なことと交通の便の悪さのため1年余で新たな事務所を探すことになります。
 
 会合や研究会のできるスペースがあり、交通の便もよく、おまけに家賃も安い――こんなところがあるはずがないのに――所として決まったのが、新宿区百人町にあるメゾン(フランス語で“家”)吉田2階、でした。
 メゾンといえば聞こえのいいものの1階に1所帯しかない小さな3階建てのビルです。この事務所を初めて訪ねてくる人は必ず迷ってしまうといういわくつきのビルでした。どの人も当所まで来ているのに、洒落た名前に誤魔化されて通り過ぎてしまったからです。
 
 それでも住宅街の中にあり、時折起こる裏に住むオバサンの怒鳴り声と、同じく裏手にあった淀橋消防署からの消防車・救急車出動のサイレンの音を除けば、静かでした。何より以前のように風俗関係の人に間違われることもなく、暴力団の抗争とは無縁の地でした。
 かつまた、奥の和室では10人前後の会合を持てたし、駅からは少し歩くけれど、新大久保駅、大久保駅、高田馬場駅が利用できる至便さは何よりでした。

 私がこの百人町の事務局に初めて足を運んだのは、引っ越し直後の荷物整理のアルバイターとしてでした。73年秋のことです。
 この頃の私は、大学5年生だというのに職も決めず、漫然とした日々を送っていました。友人が先輩(これが当時事務局にいた三浦さん)に頼まれたと言って、私を事務局に連れて行きました。引っ越し直後の山積みの書類や本、雑誌の中に入り、言われたことを黙々とやっていた自分が、2か月後には正式の事務局員として働くことになるなど、思ってもみませんでした。
 後で知ったのは、アルバイトという形で仕事ぶりを見てみようという心づもりが先輩たちにあったことでした。もちろん私がそのことを知る由もありませんでした。
 
 この日何故か強く印象に残っているのは、ものすごく早口の男の人が訪ねてきて、何やら熱っぽく語りまくっていったことでした。
「児文協が……、後藤(*後藤竜二さんのこと)が……、社会状況は……。」
 その話は、あまりの早口のために切れ切れにしかわかりませんでした。この出会った人物こそ、その後、徹夜マージャンつき合わされるなど、私的にもお世話になった大岡秀明氏(*児童文学評論家)でした。

 12月に事務局員の鈴木さんが辞めることになり、私に、事務局員として働いてみないかという声がかかりました。アルバイターとしての勤務評定は合格だったのでしょう。
 その後、形ばかりの面接をしました。理事長の関英雄先生は、会うまでは不安を持っておられたようです。何しろ、事務局は長い間女性だけの“秘密の花園”みたいな職場に、九州男児が入るというのです。民主主義を標榜する児文協の理事長ならずともこの世代の人なら、あれこれ心配になるのが当たり前です。
 しかし、「一目見て、そういう(?)心配のない人だったのでホッとしました」と後日語られたのを聞き、なんだか複雑な気持ちになりました。

(続く)

ここに名前を出した、大岡秀明さん、後藤竜二さん、関英雄さん、みんな亡くなられていて、ここにこうした思い出でを書いて偲びます。<下>に続きます。

(№1261の記事)