井上ひさしさんが、いまおられたら、そう思うことしきりです。

井上ひさしさんが亡くなったのは、2010年4月。
東北の大震災、津波被害、更に福島の原発故は、井上さんが亡くなられた1年後の2011年3月でした。
『吉里吉里人』の舞台は、まさに井上さんが若き日に一時期過ごした地の近く、また「ひょっこりひょうたん島」のモデルになった蓬莱島も同じく岩手県大槌町。
大槌の町は大津波によって最も被害者数の割合が高かったところでした。

井上さんが東北に心を寄せたのは、自分の出身地方ということと同時に、この地が歴史的に中央や権カからの収奪地であったことへの怒りもあったからです。
物が奪われただけでなく、「ことば」も奪われたということへの強い批判が、ことばを使った作品に結実しました。

井上さんのこの思いは、東北だけでなく、日本全体に及びました。更に日本の近代から現代につながる時代状況、つまり歴史への関心もっながるものでした。

特定秘密保護法はじめとした日本の民主々義の危機、憲法9条の改悪の動きの拡大に、井上さんは、どのような発言をされるか。

『木の上の兵隊』を書こうとしていた井上さんなら、沖縄への差別的な中央政府をどのように叱ってくれるだろうか。

IIIII

『父と暮せば』『紙屋町さくらホテル』でヒロシマの原爆をテーマに作品化した井上さんの、同じヒロシマを世に問うた『少年口伝隊一九四五』を読みました。



この作品は、2008年2月に行なわれた日本ペンクラブが主催した世界P.E.N.フォーラムで上演された作品です。

少年口伝隊というのは、被爆直後の広島市内で、紙の新聞にかわって、辻々でロ伝えで新聞記事を紹介した少年たちのことです。

「広島がヒロシマになった日」、こう語りだします。
「水の都」、「四十三万人の大きな都会」、「学問の都」、「陸軍の都」、「造船所の街」、「造船所には三万の朝鮮人」と続けて紹介されていく中に、次のような一節が挟まれます。

「広島には空襲がありません。
『この広島からはの、アメリカヘ、えっと移民さんが行っとってじゃ。ほいでみな、日系市民とかいうアメリカ人になっちょる。そいじゃけん、そのアメリカ人が生まれ故郷に爆弾を落とすわけがなあが』

みんなそういっています。

ちょうどそのころ、アメリカの大統領がイギリスの首相にこういっていた。
『原子爆弾の投下目標都市は、広島、小倉、新潟、そして長崎です。
一発の原爆にどれだけの威力があるかを知るために、そのときがくるまで、これらの四都市に空襲をしてはならぬと命じています。空襲の処女地で原爆の威カを見たいのですよ』
『それは正しい選択ですと、イギリス首相はいった。」

IIIII

原爆投下後の地獄のような描写。
井上さんは、1月後に広島をおそった超大型台風もとりあげます。枕崎台風です。
この台風によって広島を中心に四千人近くの人が亡くなっています。

広島の街を襲った台風によって山津波が起きました。(昨夏のことも思い出しました)

いま新たに山田洋次さんの脚本で、ナガサキを舞台にした『母と暮せば』(井上さんの『父と暮せば』へのオマージュ)の企画がすすんでいるというとき、この短い物語で、ヒロシマの「事実」を知りたいと思います。

(No.1223の記事)