選挙権というものは私たちが主権者であることを主張する重要な機会なのに、選ばれる人々が不平等な制度を作り、残し、自らの党派的な利害を守っています。
主人公は我々であり、「選良」とされる議員は私たちの公僕でしかないはずです。
けれど、議員たちは私たちの上に立ち下治しています。
選挙の時だけにこやかさを振り撒き、実は私たちをこのてのお愛想で誤魔化しています。
ホントは選挙権を行使する人々がいない方がいいとさえ思っているのではないか。これら愚民政策はかなりのところでうまくいっているのでしょう。
この政策の成功は私たちが「考える」ということを放棄することによって成り立ちます。
逆に言えば、この考えることをさせない愚民政策に対抗するには、私たちは「考えて、考えて、考えぬく」以外にないでしょう。
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ここでこんなことを思うのも、『スイミー』という物語を子どもたちと読みあっているからです。
この物語には副題があります。
「ちいさな かしこい さかなの はなし」
ぼくはこの「かしこい」ということを、この物語の中で読みあいます。スイミーのかしこさとは何か、です。
スイミーは誰よりも速く泳げる元気な小さい魚です。そのスイミーが元気をなくし、海の底を泳ぎます。
おもしろいもの、すばらしいものを「見る」たびにだんだん元気を取り戻していきますが、スイミーの一番の元気の素は「見つけた」ということばに示されます。
つまり受動的な「見る」ではなく、能動的な「見つける」という行為こそ、最もスイミ―が求めていたものというわけです。
仲間たちこそスイミーの求めたものです。
スイミーは、ここで次のような行為をします。
「スイミーは考えた。いろいろ考えた。うんと考えた。」
こうした学習の中からスイミーのかしこさとは何かを明らかにしていきました。
子どもたちの中にも、「かしこさ=頭のいいこと、テストの成績がいいこと」というものが刷り込まれています。
しかし、この物語では、スイミーは仲間たちの楽しいもとの海、平和な海をとりもどすにはどうすればいいのか、ひたすら「考える」のです。つまり、「考える」ことが「かしこい」ということだと、子どもたちはスイミーの物語からつかみとったのでした。
小さな主権者たちの前に立つぼくは、彼らが「考えること」をいとわない子どもたちになって欲しいと願っています。