武蔵大学の武田先生のシェアされた映像をユーチューブで見ていて、とても嫌な気持ちになりました。
その映像は、東京・大久保の街中をデモしている人たちの姿を追ったもの。
大久保は日韓ワールドカップの時にも有名になったコリアンタウンです。そこを、叫び声を上げながらデモをしている人たち。
ぼくはデモというもの、表現の自由に関わるものだから大切なことだと思います。
ただ、そこで叫ばれていることには慄然としました。
「叩き殺せ!」「韓流ババア!」「韓国に帰れ!」
在日の店舗の前で、店員ともめる、客に絡むという行為が映し出されていました。
「警視庁」という腕章をつけた数人がずっと付き添って、警備に当たっています。
中国や韓国でも反日の過激で暴力的な行動が起きましたが、それへの対抗としてナショナリズムをこのような形で煽ることには自制的でありたいと思っています。
新右翼の鈴木邦男氏の「日本だけが素晴らしいという考えは、思い上がった自国愛に過ぎない。ただの排外主義。愛国とは最も遠いものです。」(朝日新聞)は冷静な意見です。
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偏狭な主張の行きつくところ、それは歴史に学ばなければなりません。
民族抹殺を狙ったナチスの歴史を考える時、フランクルの『夜と霧』をもう一度読みたいと思いました。
霜山徳爾訳の旧版の『夜と霧』を読んだのは大学生の時でした。
今回、NHKテレビテキストの『夜と霧』が出ていたので、これと合わせ池田香代子訳の新版『夜と霧』を読み進めています。
本来この本の題名は『強制収容所におけるある心理学者の体験』でした。それが日本では『夜と霧』として刊行されたのは、ヒトラーの特別命令、通称「夜と霧」命令に拠っています。
ヒトラーのナチス党と国家に反逆の疑いのある非ドイツ国民は、家族全員をとらえ収容所に送るという命令によって、多くのユダヤ人一家が夜のうちに霧に紛れて収容、実行されました。拡大解釈され、ロマ(ジプシーと呼ばれた人たち)、社会主義者、同性愛者などどんどんその対象は広がりました。
実際には、反逆の事実などなくても、ユダヤ人であるというだけで、800万人の人々が強制収容所で死亡させられました。多くのドイツ人がこの体制を支えていました。
だからヒトラー一人がこの事実に責任を負わせられるようなことではありません。ヒトラー自身は何の責任もとらず自殺しました。
民族的な狂気が多くのドイツの国民をとらえたこと、だから、ドイツは今に至るまで戦争への責任を明らかにし続けてきたのです。
フランクルは自らの過酷な体験を心理学者として冷静に分析して描き出すことで、かえって読者に深い思索を要求しています。
そしてこの姿、事実にぼくは魂を揺さぶられます。
精神性の高さ、ここに学ばねばなりません。
今日、デジカメから映像を取り込めました。やっとのことです。
台風一過の朝です。