ハンセン病は、かつては 「癩(らい)病」と呼ばれていました。

この病気は歴史的にも差別され続けてきたので、この呼称自体が差別として、今では、らい菌の発見者の名前をとって「ハンセン病」というようになりました。


ぼくは、子どもの頃にこの「らいは恐ろしい」ということを刷り込まれていました。この病がどういうものか知りもしないのに、差別的な偏見が心に巣食っていたのです。

この偏見から抜け出るためには、大人になってからの学びが必要でした。


今から10年前、2003年、ぼくは「学級通信」に『無知ではいられない』という文章を書きました。11月25日付です。


当時、九州の黒川温泉で起きた事件で触発されて考えたことを綴りました。


『らぶれたあ』119号より2003.11.25


黒川温泉のホテルでの”事件”


全国の温泉ファンの選ぶ「温泉ランキング」の1位をここ数年続けている黒川温泉が別の話題でとりあげられる”事件”がありました。

ハンセン病元患者たちの宿泊を拒否したために、元患者たちから強い抗議を受けたという”事件”です。熊本県も行政的な指導を行いました。(この時、患者たちに差別的な匿名の手紙なども寄せられるということもありました。)

ぼくは「何という愚かなことを」という怒りを持ちましたが、その一方で自分自身の苦い思いも甦りました。

無知であることへの反省を改めて抱いたのです。


「ハンセン病は恐ろしい」という刷り込み


ぼくの住む清瀬市の南側一帯は病院と施設の地域です。道路隔てただけの東村山市の北側にも病院や施設がたくさんあります。多摩全生園というハンセン病の元患者たちが暮らす広大な施設は歩いて4、5分のところです。

ハンセン病はらい菌という結核菌の一種の病原菌に感染することによって発症する病気です。

この菌は本来は感染力の弱いものですが、栄養状態が悪かったりして、体力がひどく悪いと、まれに発症します。

その症状は、末端の神経が冒される形で進むので、手足の指が曲がったり、感覚がなくなったり、顔面の皮膚が崩れたり、失明したりと悲劇的に現れます。

感染力はとても弱いにもかかわらず、その症状故に患者の方たちは差別の中で生きてきました。

発症が明らかになると、一生涯施設に閉じ込められ、家族、故郷を捨てさせられました。家族、親族も偏見と差別の中で沈黙して生きなければなりませんでした。

かつてこの病のことを「業(ごう)病」「天刑病」とも呼んでいたこともあります。

前世の業が病気となって現れた、神が刑罰として病気を与えた、こうした考えで

患者の人たちは差別を受けていたのです。

もちろん今では治療法も確立し、治る病気になり、感染しても今では病気を発症する人は出ていません。

しかしいまだに強い偏見だけは強く残ります。


ぼくが子どものとき、近所にぼろぼろの廃屋がありました。噂では、その家から「らい」の人が出たということで、家族は離散したということでした。

子どものぼくは、「らい」というものが一体どんなものか解るわけもなく、声を潜めて語られる「らい」ということばに、恐ろしいということだけを刷り込まれました。

その後、大人になっていく過程で、次第に「らい」のことを知っていくことになりました。

(高校時代に見た映画『ベン・ハー』で主人公の母親と妹が谷に隔離されて生きていた、あの罹っていた病気のこと、『砂の器』の父と子が差別の中を放浪していた病気のこと、歴史の中で知った行基のことなど)

社会的な自我に目覚めるなかで、病気のことを偏見でみたり、差別の対象にしてはならないと強く思うようになっていきました。

けれど、これは頭の中でそう考えていただけであり、実感となるにはさらに経験が必要でした。つまり自分のからだを通した学びをくぐらねばならなかったのです。


     音譜     音譜


この「らぶれたあは」まだ続きます。ぼくの「学び」のことです。

それは③回目で書きます。

(この記事アップする途中、パソコンがフリーズして大騒ぎ。もう、いやになったからですけどね。)


その後、上記で書いたことに関わってわかったことがあります。


その1。子どものとき僕の母が結核のために長期に入院していたことがあります。このことで、ぼくは差別的な眼差しを感じていたんだと思います。差別のツラさを感じていたのだなあ、と今は思います。 


その2。母方の伯父のことです。昭和30年代、熊本市のある小学校でハンセン病の患者の子どもの転入拒否事件がありました。『あつい壁』という映画のモデルにもなった事件です。

この時代、PTAが率先して「らいの子を(子どもは「らい者」ではありません)いれるな」とピケットラインをひいたのです。

しかし、保守的な土地柄、偏見の中でも、良心に従い声を上げた少数の人がいました。この許しがたい事件に対し、勇気をもって声を上げた人の中に、国文学者だった伯父がいました。

小学校低学年だったように思うぼくの記憶に、このことを語り合っていた両親の姿があります。

(ハンセン病資料館に行ってこの「黒髪小事件」のことを詳しく知ることになりました)