三木句会ゆかりの仲間たちの会:太田酔子さんのエッセイ
「尻尾のある星座」
太田酔子
飼っていたジャック・ラッセル・テリアが頓死して2年が過ぎた。彼はたった1日で
生から死へ急行した。輝く目、鋭敏な耳、敏捷な足取り、それらを2度と見られない。
あっけないと言えばそうだが、彼は忘れられない極印を残して死んだ。最後の最後に
あげた一声である。断末魔というより遠吠えに違いない。その時彼は愛玩動物ではなく
正真正銘「犬」、いや、遠い祖先の狼となっていた。
ジャック・ラッセル・テリアはキツネ狩用の狩猟犬として作られた。近頃は狩猟犬
らしさを和らげた優しいジャックを作り出しているらしいが、彼は十分に狩猟犬の資質
を持っていた。つまり、動くものに敏感に反応する。それがたとえ風に飛ばされている
ビニール袋でも、誘うように低空飛行する烏でも。そして一度咥えた獲物は絶対に放さ
ない。散歩中、公園の草の陰に放って置かれたサッカーボールやテニスボール、野球
ボール、などを素早く見つけて噛み掴む。100パーセント飼い主より素早く見つけ、噛ん
だら最後放さない。狩猟犬としての訓練はしていないから、噛むという本能のまま、
置きなさいという指示には従わない。放すように命令してもいつもこちらが負ける。
好奇心も強く、多分猫の匂いを目掛けて先へ先へと引っ張っていくのが常のことなのに、
獲物のボールを咥えた時はくるりと踵をかえし自分の居場所に帰ろうとする。凱旋だ。
大抵はこちらが根負けして帰路につく。でも、こちらも意を決して帰らないぞ、と思う
とスッとそれを察して、今度は草の生えている場所を探してそこに座り込む。そして
獲物を堪能するのである。獲物を咥えて凱旋しても、いつも誰も褒めてくれないどこ
ろか、手を替え品を替えして取り上げようとした。長い距離をよだれを垂らしたまま
ボールを咥えて帰ってきたのだから、少しは労ってやればよかったと今は思ってしまう。
彼の死後、人間以外の生きもののドキュメンタリーを映像で見ることは今だにない。
とりわけ大型の動物の厳しい生態は、たとえそれが星野道夫の詩的な映像であってもだ。
しかしこの夏、村田喜代子の犬のエッセイは読んだ。『尻尾のある星座』(中公文庫)
で、彼女自身の犬との生活と、ほかに犬にかかわる作品とを集めてある。彼女が初めて
飼ったシベリアンハスキーの、労役犬らしい寡黙で従順な理想の犬ぶりを、次に飼った
ラブラドールの3歳までの手に負えない狼藉ぶりを、それらを取り巻く義弟夫婦や娘らや
夫とのあれこれを活写している。作家というものは記憶の鮮明さが大事なのだとつくづく
思わされる。こと細かい事実を見事に言葉で映像化している。
この本で初めて知ったマリー・フランソワ。1883年にフランス初の動物実験反対協会
を作った女性。「敬虔で貞淑で良く家庭を守るよう賢く教育されていた」マリー・フラ
ンソワは、クロード・ベルナールという実験医学の設立者と結婚した。そして動物実験
の現実を知る。自宅の地下室に実験用の犬を閉じ込めた地獄の上で、彼女は夫に仕え子
どもを育て、17年後離婚するまで苦悶の生活を続ける。高名な医学者の仕事を理解せず
あろうことか妨害し、ついには捨てたカトリックの女性という汚名をきせられるのだ。
「動物にかぎらず、生きものの命について敏感な者にとって、マリーの人生を覗くこと
はひどい苦痛を伴う」(164)と書き留めている。今も人間のために犠牲にされる小動物は
天文学的な数に上る。
犬はいつでも飼い主の動静を感受しようとしている。ましてや盲導犬のように人が出す
コマンドの指示でのみ生きてきた犬は、役目を終えた退役犬でも、勝手には動かない、
動けない。カム、と呼ぶまで待機している。ハウス、と指示が出るまで犬舎にも入れ
ない。おしっこも指示を待つ。ワン・ツーと言うとワンでしゃがんでツーで尿を出す。
脳にコマンドを埋め込み鍵をかけられた盲導犬は、主人が許可を忘れたら膀胱が壊れて
しまうことだってあるという。作者は、犬に代わって視覚障害者の歩行誘導をする機械
が開発されないものかと妄想する。犬にかぎらず生きものたちと人間との関係はなんと
悩ましいことだろう。
このエッセイ集の掉尾は鴨居羊子と平岩米吉である。「私の中で犬をこよなく愛した
人間といえばこの二人に尽きる」そうだ。そして「愛犬物語とはじつに犬との死別物語
なのであって」(224)という胸に迫る2篇が置かれている。動物行動学者の平岩は「日本
犬保存会」「動物文学会」「フィラリア研究会」を設立した。フィラリアのワクチンが
どれほどの犬を救っているか、これだけでももっと世に知られて良い人物だ。彼の犬
チムはフィラリアによって殺された。解剖すると、肺動脈にも心臓にもフィラリアが
充満していたという。彼がチムとの死別を語る随筆「チムの死とその前後」(『私の犬』
築地書館 1991年復刊)は、愛犬物語は犬との死別物語だというのがなるほどと頷ける、
珠玉と言っても足りない名品である。
photo: y. ota
差し出せる首柔らかし繋がれてリードの丈の自由を生きぬ 酔子