三木句会ゆかりの仲間たちの会:飛鳥遊子のエッセイ | sanmokukukai2020のブログ

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       三木句会ゆかりの仲間たちの会:飛鳥遊子のエッセイ

 

   成清正之という俳人

 

    私の好きな俳人の1人に成清正之(なりきよ・まさゆき)がいます。彼の句を2、3目

   にして、あ、もっと読みたい、と平成20年出版の句集『鵯の季節』の古書を求めました。

   その句集には謹呈の札が入っており、出版の年の1月25日の読売新聞の小さな切り抜きも

   挟まっていました。その記事は、岩岡中正という俳人・熊本大教授の筆になる「時評 

   俳句」でした。謹呈された持ち主が札と切り抜きを挟んで古書店に出したか、それを入手

   した次の人が、挟まっていた謹呈の札と切り抜きの両方を挟んだまま手放したものか、、、

   など、私の手に渡るまでの句集の旅路を想像してみたものでした。

    俳歴欄から、昭和2年、福岡県生まれ、もっぱら九州俳壇で活躍されている重鎮である

   ことを知りました。本を手にしたとき、まず後ろのページを繰り目を通してから本文に入

   るという方も多いのではないかと思いますが、私もその1人。著者による「あとがき」に

   は俳歴60年とあり、”平成十年以降の何かしら愛着のある作品をまとめて見ました”と

   ありました。膨大な数の句を詠まれてきたなかで、ある時期に詠まれた句のなかから、

   ”何かしら愛着のある”と選ばれた句たち、その言葉遣いにも、お人柄が偲ばれる気がした

   ものです。

    その句柄は現代俳句の雰囲気を色濃く持ちつつも、私などにも理解できる比較的親しみ

   やすい句が多いように思います。前述の切り抜き記事の筆者である岩岡教授は、”、、、

   写生派は写生を通して対象と近く親しいものとなるが、著者は内なる心象と詩を通して

   対象と一体化する。著者の詩的にデフォルメされた比喩の確かさとものに興じる俳諧の

   精神が、万象を生き生きとした生命世界として描き出す”とあります。私が直感的に好き!

   と感じたことを、教授は的確な言葉で記していらっしゃるので拝借しました。

 

    『鵯の季節』からいくつか好きな句をあげてみます。

 

     まだ風になれぬ少年青野にいる

     ふくろうが動けば動く老人たち

     蹴るための落葉があるは別れなり

     風花は空のはにかみかも知れぬ

     枯山にけものの臭いする日溜り

     春光の田に出て少女らはさざなみ

     捨てるかも知れぬ芒を持ち歩く

     あめんぼうさみしいときは雲を蹴る

     車椅子たためば蝶に似た吐息

     はくれんのかすかな狂気ぼくにもある

  

 

    以来、句集『鵯の季節』は、机上に並べ立ててある他の句集や句評本の列のなかでも、

   常に正面の位置にありました。年数が経つうちに、背表紙の四文字「成清正之」は私の

   潜在意識の中に潜ってしまったかのような印象がありました。でも、彼がいまだお元気

   な俳人なのかどうかさえ、迂闊にも考えてみたことがありませんでした。

    そして驚きは、結社誌『麦』12月号を手にした時に訪れました。数年前、ほんの短期 

   間『麦』の主宰・対馬康子氏の現俳の句会に参加して以来、『麦』は私の意識の中で

   大きなものとなり、句会が終わった後も結社誌『麦』を購読しています。対馬康子氏の

   記事「成清正之さんを偲んで 気迫の俳人」を見つけた時に、初めて成清正之氏が最近

   亡くなれたのだと知りました。そして彼が1954年から結社『麦』の中心的同人でいらし

   たことも記されていました。もちろんそのことは俳歴に記されてもいたのですが、句集を

   手にした当時、私はまだ結社『麦』を知らず、その短い1行をするりと読み過ごしていた

   のでした。

    対馬氏は下のような句を取り上げ、タイトルにある”気迫の俳人”を偲んでいらっしゃい

   ます。

 

    涸れ川に石蹴ってゆくまだ闘える

    勤めなき日の首筋柔し野火走る

    夜の木槿己が力で吾子泣けり

    石人に眼なき疾風大地萌ゆ

    蝉追いゆく眼鏡冷たき母子と逢い

    不透明なままでいたくて酸葉噛む

    身を起す微熱の背後寒雀

    葱坊主そのちぐはぐの自在がいい

 

    文中、対馬氏は ”社会人として生きる現実をどのように認識し俳句に表現するか。

   混沌の中で対象を掴み、心の奥にある真実を見つめようとしています”と評されて

   います。 

    さらに、父であり師であった成清正之氏へ思いを綴る俳人赤峯友子さんの<私達に届

   けたかったのは父の「思い」であった。俳句は懐かしく、やさしく、あわれでありたい

   と教わった。知性、感性、今日性を大事にすること。ありのままに捉えることから、見え

   ないものを見えるように書くこと。俳句に毛一本の新しさをとり入れること。よい俳句は

   よい集団から生まれる。皆の力で更に強固にしていくようにと。> との文章も紹介されて

   います。

    毛一本という平易な言葉遣いにはリアリティがあり、心に沁みる表現だと思いました。

   大企業に勤める九州男児という一面的なイメージとはほど遠い、深いところで人としての

   悲しみや寂しさを敏感に掬いとる繊細な心の持ち主だったように私には思えます。

   おそらく晩年の作品と思われる句からは、衰える我が身を鼓舞するような作品もあり、

   ”気迫の俳人”のタイトルの意味を推しはかることができます。俳句があわれでありたい、

   とは如何なる意味か、考えてゆきたいと思います。  飛鳥遊子

 

 

            

 

 

               

                          photo: y. asuka

                              青いどんぐり転がってゆくぱれすちな   成清正之