9月ブログに続き、今月も9月句会報の中から太田酔子さんが鑑賞文を寄稿をしてくだ
さいました。文章にしてみると、自分の鑑賞の深浅がよりよくわかります。投稿するしな
いは別として、好きな句があったら、文章にしてみるのもいいかもしれません。選句の力
は作句と同様、あるいはそれ以上に大切と考えられています。
しやかりきの地球とわれら秋出水 國分三徳
一読したところでは、「秋出水」と「しやかりき」の重さと軽さの不均衡にその諧謔味
があり、三徳氏の真骨頂と思われる俳諧に他ならないと思った。確かに、この句の面白味
は、「秋出水」という季語の、災害と直結する悲観的な側面に「しやかりき」という観念
をぶつけたところに違いない。「しやかりき」は人間が何かを成し遂げようとするときに、
ほとんど人目も憚らず躍起になっているさまを言う。「しやかりき」というのは、その語
感の軽みに反して、実は必死になっているのである。そうであれば「しやかりき」も軽い
ばかりではない。「地球とわれら」は災害に見舞われ続けるたびに、必死になって抵抗し、
打ちのめされても立ち上がっている。
言うまでもなく、二十世紀、あるいはもっと前からであろう、地球環境は悪化し続け、
温暖化によって災害の規模は限りなく甚大になっている。実のところこれは「われら」の
自業自得なのだ。「しやかりき」になって産業革命を起こし、あらゆる面で「発展」をめ
ざした結果である。「しやかりき」は、「しやかりき」になって現在の生活を手に入れた
「地球とわれら」が、そのつけを「しやかりき」になって払わなければならないことと、
二重に掛かっていて巧者の詠みぶりだと思う。そして、この句を音読するとき、悲観的で
はなく飄々とした趣を覚えさせるところは、良質な俳諧が持つ軽みに限りなく近い。同時
に、この句は皮肉や滑稽のうちに辛辣な目を持ち合わせていることをも教えてくれる。
太田酔子
photo: y. asuka
木つつきの死ねとて敲く柱かな 小林一茶