大塚楓子さんから、若き日の留学の思い出を綴った投稿をいただきました。人に歴
史あり、ですね。シリーズになりそうです。
アイスランド子連れ留学顛末記その1 大塚楓子
私がアイスランドに出会ったのは、吉祥寺の小さな本屋さんで『アイスランド』
(山室 静著)を見つけた時でした。それ以来、小さな国の歴史とその文化に夢中になっ
てしまいました。当時、女子大学の助手をしていましたが、学科長にアイスランド
を研究テーマにしたいと申し出たところ、「女の子1人にできるようなものではな
い」と言下に言われました。でもしばらくして、紀伊國屋から図書館用の書籍がた
くさん届いた中に、分厚い『アイスランド語・英語辞典』が含まれていました。私
はそれを許可の印と思い、古北欧語の勉強を始めました。独学でした。
そして10年余りが経ちました。私は講師になり、大学には留学制度ができていま
した。身辺にいろいろなことが起きていた私は、逃げるように留学を思い立ち、古
英語の大家でいらした先生に相談したところ、「エディンバラ大学の英文科にアイ
スランド人の先生がいたな、推薦状を書いてあげよう」と、こともなげにおっしゃ
いました。当時はまだメールなどなく、手紙でした。私も拙い志願書を学科長とそ
のアイスランド人の先生に送りました。無知とは恐ろしいものです。その方は、当
時ペンギンクラッシクスにアイスランド・サガ(英雄伝記的物語)を次々と英文に翻
訳され、英語圏への紹介者の第一人者であり、国際サガ学会の創設者、すなわちア
イスランド学のボスであるヘルマン ・パウルソン氏だったのです。
私は教鞭をとるかたわら、ぼちぼち古北欧語と文化の勉強をしていたとはいえ、
幼稚園児のようなものでした。ステータスも業績もない私には研究室はいただけな
かったけれど、図書館に専用の机(キャレルと言っていました)を与えられ、スタッ
フクラブのメンバーにしていただきました。そこで休憩したり、食事をとることが
できました。ヘルマン先生は、私にエッセイを1つ書くようにと言われ、その後、
週1度、一対一の授業をしてくださいました。私の能力不足を即座に判断されたの
でしょう。帰国後、苦労して解説と日本語訳を作って本にした中編の『ギースリの
サガ』を読み聞かせてくださいました。 (つづく)
<写真俳句>
さとう桐子さんから1句寄せられました。
クリスマスローズ祈りのひとしづく
太田酔子さんから2句寄せられました。
若布乾す風は西からしか吹かぬ
磯菜摘くるぶしに水を許して
「わたしの選んだ特選句」に添えたベン・シャーンの絵と文のアーサー・ビナード
氏について少々。
ベン・シャーン(Ben Shahn)は、1892年リトアニア生まれのユダヤ人画家です。
1906年、7歳のとき移民としてアメリカに渡りました。石版画職人として働き、ア
メリカ社会の底辺の人々と接するなかから、社会派リアリズムの画家として戦争、
貧困、差別、失業などをテーマにした絵画を描き続けてきました。
1932年、冤罪を扱った「サッコ・ヴァンゼッティ事件」をテーマにした23点の
連作は問題作として話題になりました。
1954年、マーシャル諸島ビキニ環礁付近でマグロ漁をしていた第五福竜丸は、
アメリカによる核実験で被爆しました。広島型原爆の1000倍を超える放射能が太
平洋を広く汚染しました。この出来事をテーマにしたベン・シャーンの代表作の1
つである一連の絵に、作家アーサー・ビナードの文、和田誠の装丁で作られた絵本
が『ここが家だ』(集英社 2006年)です。
”ひとは 家をたてて その中にすむ。”
”ここ 日本の 焼津という まちも 家が いっぱい。”
”マグロは いつも およいで とまることは ない。マグロの すむ家は 海の
あちこち。”
とビナード氏の文章は始まります。
”ひとびとは 原水爆を なくそうと 動きだした。けれど あたらしい 原水爆を
つかおうと かんがえる ひとたちもいる。実験は その後も 千回も 2千回も
くりかえされている。”
と続きます。
人類はより賢明になっているのでしょうか。 (遊子)
photo: y. asuka
深きより汲み上げ零す香に群るる
蜂見ればさね水は地の蜜
高橋睦郎