有馬英子その生い立ちと俳句
第11章
自分が望んで大学に頼めば、寮に4年間いることは可能ですが、みんなは2年間
で寮を卒業してゆきます。私は当然前者になるわけですが、寮を出て暮らしてみた
いという思いもあり、考えあぐねておりました。そこに仲の良いMやんから「うま、
一緒に住まない?何でも半分になるし」などと助け船を出してくれたのです。彼女
の言葉を待っていたわけではないのですが、どこかで待っていたのかも知れません。
嬉しかったです。Mやんはお寺の長女で、何かしら仏教関係の本を身近に置いてい
ました。よくしゃべり明るく誰もが好きになる人です。両親も安心したようです。
そんなこんなで引っ越しの準備が整い、母が手伝いに来てくれたとき、その時
でした。たまたま寮の電話を取ると、叔父からのものでした。「しっかり聞くんや
ぞ、兄貴が手紙を残して、いなくなったんや、女性と関係して、既にきちんと分か
れた。このことは僕もしっかり確認した。だけど芳江さんに悪いことしたって、手
紙にはそればっかりで、合わす顔がなくなったんだと思う」と叔父。「母とすぐ帰り
ます」と私。母は立ち直っていました。
父が見つかったのは10日後のこと。私が知らない父の友人関係のところにいま
した。ホッとしたものです。金沢には帰りたくないというのであっちこっち何や彼
やと振り回されて、母は大変でした。父と会ったとき、私は涙を流すことがなかっ
たので、後に叔父から冷めた娘だと言われたものです。そして、母と父は2人で房
総のホテルに行き、2晩じっくりと話し合うと言うので、見送りました。そして又
やり直すことになったと知らされたのは3日後のこと。東京に住むことにしたので
英子にも良いことでしょ、はじめての東京生活を助けてほしい、と母に言われて、
私は卒業するまで千葉で暮らして、月に何回か東京に来ることにしました。波乱含
みの3年生が始まりました。
<6月号につづく>
英子書
青葉若葉目からビタミンカルシウム 有馬英子