有馬英子その生い立ちと俳句
第8章
結核が完治してから、中学3年生の勉強が中途半端なのと、石川県にも養護学校
が創られることになったので、私はそれを待って、高等部に入学しました。出来た
ばかりの学校ですので、先生方の戸惑いが大きく、若い先生方の中には「看護学校
かと思った」という人もいるくらい。中学生、小学生と下級生ばかりでしたので、
大きな顔をしていたかもしれません。高等部1年は男子4人、女子8人で勉強させ
てもらい、贅沢だったなと今は思っています。しかし、上級生がいないため、若い
先生方を友達のように、恋する対象のようにと、摩擦が色々ありましたが、自分の
ことではない(?)ので書けません。
私は「現代国語」が1番好きで、その中で出合ったのが「俳句」、その中でも
ひらひらと月光降りぬ貝割菜 川端茅舎
1枚の絵となって私の心を捉えました。月光と貝割菜がまるで交信するかのように、
元気に育てよと言っているように、心が温かく自分を満たしてくれました。貝割菜
が自分のことように思えたのです。川端茅舎のことが知りたくて探していたら、す
ぐ近く、父の本棚にありました。そして写真も載っており、清々しい横顔に、ます
ます好きになってしまいました。(やはりビジュアルは大事です) その本は引っ越し
でなくしました。現在スマホで、その茅舎の顔を探しても見つかりませんでした。
私の思い違いなのかもしれません。
俳句をやっている先生を見つけ、私の句を見てもらうことにしました。科学の先
生で、年配の方。私の初めて作った句は
わが心知るかのようにおぼろ月
という句でした。先生には、自分を出し過ぎですという一言でしたが、私には忘れ
られない1句です。その後も作ったのですが忘れてしまいました。
その勢いで、文芸部を作りたいと思って、何人もに声を掛けましたが、「無理~」
と言われて、1人でも始めたいと思っている矢先のこと。 同じクラスのT君から
「化学クラブをI先生と作るんだけど、入ってくれない?」と持ち掛けられました。
「化学には興味なし、ダメ」と一蹴。しかし、I先生からも「有馬さん、一緒にやり
ましょう。」と顔を見る度に誘っていただきました。そして、私は何の興味もない
化学クラブに、もう1人名前だけでというM子と一緒に入部。
「蒸発痕跡の研究」という、簡単に言えば、一定の距離から様々な水滴を落とし、
水分がなくなった痕跡を比較し、どういう違いがあるかないかを調べてみるのです。
私はひたすら先生の助手で、紙の交換などをした覚えがあります。夏休みはそれで
つぶれてしまいました。
その記憶も忘れかけた頃、I先生に3人が呼ばれ、「第12回日本学生科学賞の
特別賞に選ばれました」とおっしゃいました。応募したのも知らなかったので驚
くばかりです。その上、表彰式の招待状まで。ホテル・ニューオータニに泊まれる
なんて。ホテルの大広間で表彰式があり、立ち上がってお辞儀するだけでしたが、
晴れがましいものでした。初めて東京に行ったM子は、雪のない東京がたいへん
気に入り、東京に就職しました。それくらい人生を変えるものでした。
<3月号に続く>
photo: s. negishi
梅咲いてまたひととせの異国かな ジャック・スタム