『俳句の言葉』有冨光英編著より | sanmokukukai2020のブログ

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   『俳句の言葉』有冨光英編著より

 

   <新興俳句>

 

    新興俳句あるいは新興俳句運動の名前は昭和俳句史の中にだけ生きている。それ

   も昭和初年から二十年までの間にすぎない。ところがその運動の真価と影響は名称

   を変えて現在まで続いている。

    新興俳句運動は大雑把に言って前期と後期に分けられる。昭和の初年は花鳥諷詠

   客観写生を唱えた虚子の「ホトトギス」全盛時代だが、それへのアンチテーゼとし

   て秋桜子は「自然の真と文芸上の真」を発表し近代的抒情俳句を唱導した。同じ頃、

   誓子は新興素材を拡張しモノによる表現を目指した。これが従来の伝統俳句に対抗

   する新しい運動の原動力となった。しかし運動の一方法として連作俳句を取り入れ

   たが、これが無季容認から超季へと展開して行った。有季を要件とする秋桜子と誓

   子はこの新風から離れて行った。ここまでが前期新興俳句である。

    俳句を史的通念から言えば新興俳句運動は後期を指している。およそ昭和十年頃

   からである。日野草城の「旗艦」、平畑静塔、西東三鬼らによる「京大俳句」、吉

   岡禅寺洞、横山白虹らの「天の川」等、新しい運動に呼応する俳誌が続出した。モ

   ダニズム、リベラリズム、リアリズム、ソシアリズムと作風は多彩だった。

    衆知の代表的作品をあげてみる。

   しんしんと肺碧きまで海の旅(昭9)篠原鳳作

   水枕ガバリと寒い海がある(昭10)西東三鬼

   戦争が廊下の奥に立ってゐた(昭14)渡辺白泉

    右の三句は現在でも充分に存在価値がある。この多彩な俳句運動が終焉したのは

   戦時中の治安当局の検挙による。理由は俳句表現による反戦、厭戦風潮を惧れたた

   めという。新興俳句という名前は二度と使われなかった。

    だが、戦後になって新興俳句の理論、技法は名称を変えて簇々と発表された。社

   会性俳句、前衛俳句、「モノ」俳句等枚挙に暇がない。それに自由律から口語俳句、

   あるいは多行俳句等、昭和初期の新興俳句運動より何倍も変化に富んでいる。

 

 

 

                                                             Palio di Siena      photo: y. asuka

                                    誰もゐない明るい馬場に風が殖え         渡邊白泉