有馬英子その生い立ちと俳句
第3章
小学校を修学猶予になったので、父が教科書を揃えてくれ、近くのお姉さんから
教えてもらうことになり、勉強していました。私が家の前にいると、学校帰りのラ
ンドセルを背負った男の子から「おまえ、ダラやろ」(馬鹿だろう)とよく言われま
した。その度に「ダラやない」と言い返したのを覚えています。
この頃、両親は創生期の肢体不自由児父母の会に入り、運動を始めました。そし
てそこの情報から、私は大きな手術をすることになったのです。両足の股の開きが
とても悪かったので、両足の内側の付け根の腱を切る手術。手術自体も痛いのです
が、術後も痛いのです。大きな病室に何人もの子供たちが同じ手術をして、泣いて
いたのを覚えています。その手術の結果、股は開き易くなりましたが、内股の力が
なくなってしまいました。
同じ頃、叔母が結婚し、お婿さんがくることになりました。叔母は末っ子でと
ても可愛がられて育ち、お洒落で誰にも好かれ、お婿さんもカッコいい人でした。
叔母の花嫁姿はとても美しく、綺麗だな~と思って見とれていました。そのとき、
近所のおばさんが「綺麗ね、でも英子ちゃんはなれんね」と言ったのです。私はそ
れを聞いて、「なれる」とは言い返せませんでした。自分でも自分には無縁と思っ
ていたから。このことは両親にも誰にも言っていません。まだ若い二人なので、我
が家族も一緒に住むことには変わりなく、少し賑やかになりました。
父は、東京に脳性マヒに詳しい先生がいることを知り、すぐさま東京に。五味重
春という方で、90歳で亡くなられるまで、私はこの先生のお世話になることになり
ます。先生は父の話を聴いてくださり、金沢に来て父母の会で身体障害の話をして
くださったそうです。
そこで、東京にはリハビリをしながら併設された学校で勉強もできる施設がある
ことを知りました。その施設には、母子に訓練を教えてくれる部門があり、日本中
から集まってくるとのことで、私も母と3ヶ月間参加することになり、東京の板橋
区小茂根に向かいました。
昭和32年7才になったとき、整枝療護園で3ヶ月間しっかりリハビリをします。
上肢訓練、下肢訓練、言語訓練、日常訓練、自由訓練、マッサージなどです。知能
指数は高いと言われ、知能の訓練はせず、身体の訓練に専念したら良いと言ってい
ただきました。
3月に入って、私はよちよちですが歩けるようになりました。さらりと書いたほ
ど簡単なものではありませんが、歩けるようになった時のことを今も覚えています。
母が「後ろにいるから大丈夫だよ」と言ってくれ、恐る恐る足を出し、何度も転び
ながらもほんの少し歩けました。とても嬉しかったです。母は大喜び。自分が歩け
た時のことを覚えている人は、そうはいないだろうと密かな自慢です。
当時の母のメモから抜粋してみます。
『3月17日日曜日、1ヶ月ぶりに英子を連れて外出。池袋のデパートへ行き遊ばせ
る。英子大喜び。訓練のひとつと思って、できるだけ階段を上り下りさせる。足を
力強く出すようになる。
3月23日、英子を連れてパーマをかけに行く。英子もかける。夜、紙芝居。主人
より手紙。
3月31日日曜日、国際劇場へ部屋全員で出かける。とても良かった。東京おどりは
とても美しく、英子も大喜び。楽しい一日だったが疲れた。
4月1日、総合診察、五味先生に随分良くなったと言われ嬉しかった。
4月13日、言語訓練で母子共に歌って、テープレコードに吹き込む。生まれてはじ
めて自分の声を聞く。楽しい半日だった。妹より電話、今夜発ち、明日面会に来る
とのこと。
4月14日、妹夫婦が尋ねて来てくれる。母より2000円いただく。2ヶ月ぶりに会っ
てとてもなつかしかった。
4月21日、朝食中に主人来る。施設を回って、していることを見せてから出掛ける。
新宿へ出てデパートをまわり、後楽園で遊ぶ。久しぶりに会って一安心する。
5月2日、マッサージ実習、夜、歩行練習
主人より2通手紙あり、何時に変わらぬ深い愛情のあらわれた便り、身にしみて嬉
しく思った。結婚して10年経ったが倦怠期もなく、深い愛情と共に暮らしてこら
れたのが、何より幸せだと思う。英子の身体の良くなると共に、ますます私達も充
実した明るい楽しい家庭生活を送っていきたい。
5月7日、階段を上る練習。靴が滑るせいもあるが、いやがる。でも止めるのでも
なく、強情で動かない。根比べをする。強情なだけ又それだけ一生懸命頑張るのだ
が‥‥。何だかこれまでして訓練をしなければならないのかと、英子をながめて涙
ぐむ。
5月13日、退院間近。先生が、英子は大分力がついたので、なるべく普通の学校へ
行ったら良いと言われる。
5月16日、マッサージ実習、3時より知能テストの結果はとてもよく、理解力もあ
り、この病気の子にしては珍しく頑張り屋で普通の学校へ行っても大丈夫とほめら
れ、本当に嬉しかった。主人より手紙。
5月17日、いよいよ明日退院となる。3ヶ月、長いようで短い。毎日の訓練も大変
だったがいろいろと楽しい思い出も多く、こちらへ来て本当に良かった。これから
も同じ境遇の子が沢山いることを思って、明るく生活していこうと思う』
最後のページに、整枝療護園に提出したとみられる母の感想文がありましたので
書き写します。
『思えば7年前、早産児だから発育が悪いのだと思っていたのに、脳性マヒと診断
された時の驚きと悲しみ、あの日が忘れられない。何の治療法もないと思って、マッ
サージだけにすがって通った数年。我が子を見つめ、どうしたものかと迷った日々。
整形外科で手術を勧められて受けた手術。その後知った整枝療護園の脳性マヒ児の
訓練法。日本唯一の訓練法や施設を見て、母子入園を決めた。
ここで、私達は一人ではない、一生懸命頑張ればきっと少しでも進歩するのだと、
同じ部屋の人達から学んだ日々。我が子ながら一生懸命になる姿を見て、思わず涙
ぐんだ。焦ったら駄目、根気よくと思っていながら叱ったこともあった。毎日の訓
練で、どうにか手放しで歩けるようになった我が子。入園して本当に良かったと思
う。先生方の熱心なご指導、詳しいご講義など、母子共に一生忘れられない日々と
なった。前途多難だが、子供とひとつとなり、この病気をどうにか克服していきた
い』
この文章を読むと、母の想いの強さ、深さ、熱さに、胸に迫るものがあり、圧倒
されてしまいます。こんな母がいて、今の私がいるのです。
<7月号につづく>
photo: S.Negishi
紫陽花となるまではただ無色かな 平井照敏