哲学の実践へ―中島隆博『哲学』を読んでー | 四角いけれど丸くなりたい

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今まで閉鎖的であった中国思想研究は、現在、新たな展開を迎えつつあります。
 それは、「いま、ここにいるわたしたちがどう考えるか」という視点が中国研究の意味上においても問い直されたからです。もちろん、中国研究にこうした視点が今までなかった訳ではないのですが、それが自覚的に取り入れられたことの意味は大きいと言えるでしょう。
 
 今回は、そうした中国哲学の可能性を提示した中島隆博氏の『哲学』をもとに話をしていきたいと思います。
 

哲学とは何か

 そもそも哲学とは何なのか。
 この最も根源的で最も難しい問題の一つに分かりやすく答えることからこの本は始まります。
すなわち、哲学とは、哲学者が何にもよらず単独で概念を定義することである。
哲学は、哲学者の単独の実践に見えながらも、他者に呼びかけ、他者から呼びかけられる構造を有していることがわかる。
 哲学者が単独で概念を定義する。しかしながら、哲学は独善的なものであってはならず、他者との応答によって行われる、というのです。
 

哲学と翻訳

 そして、「あらたな概念に基づいた言説を紡ぎ出す実践」である哲学は「翻訳」されるのを待っている、と述べます。
そもそも哲学は、・・・・・・複数の言語に開かれ、他者の言葉に耳を傾け、その上で、あらたな概念に基づいた言説を紡ぎ出す実践でもある。
哲学者が概念を提示するとき、その概念は翻訳されるのを待っているとも言えそうである。
 この「翻訳」とは何を言うのでしょうか。
 ヴァルター・ベンヤミン(1892~1940、独)を介して思考され、更に解説が加えられます。
翻訳者は、創作する詩人と異なり、言語そのものを救済しなければならない。それは数多くの言語の中にある「純粋言語」を解放することだ。
「純粋言語」とは自然=事物に与える名であり、それ自体がすでに翻訳であり救済であったのだが、ベンヤミンはさらに翻訳することを通じて、救済しようとする。つまり、「純粋言語」を特定の言語の中にとらわれた状態から解放し、普遍化しようというのである。
 つまり、中島氏によれば「哲学者は事物を二度救済する」というのです。
 それは、「自然=事物」に名を与えるという意味の救済(「純粋言語」へ)と、その「純粋言語」を解放し、普遍化するという意味の救済です。
 中島氏はおそらく、この二度の救済=翻訳を行うことが哲学者の使命であると考えているのでしょう。
 「自然=事物」を言葉にし、それを(概念によって)普遍化する。
 哲学者のなすべきことが分かりやすく述べられた文章だと思います。

哲学はなぜ行われるのか

 では、哲学はなぜ行われるのか。
 この答えが「翻訳」を「救済」と言い換える答えでもあります。
とはいえ、翻訳者(哲学者)による救済は容易なものではない。なぜなら、翻訳者が対峙していいるのは複数の生き存える言葉であり、別の時間性を有した言語であるからだ。
つまり、過去は、「メシア的な時間」として現在において出会われることで、救済される。
 ベンヤミンを介して思考されているこれらの概念を、(意味を取りこぼしてしまう可能性を感じながら、)もう少しだけ平易に言うと、過去の言葉や現在の自分の関わりのない言葉といった、「別の時間性を有した」生き存える言葉を、「いま・ここ」においての意味に転化することが翻訳者(哲学者)の役目である、というのです。
 
 そのためには、別の時間性にある言葉を「構成」し、「いま・ここ」においての意味に転化できるものにしなければなりません。
必要なことは、過去を歴史主義の抑圧から解放し、それをモナドとして取り出し、「ひとつの時代の<なかに>全歴史の経過が、保存され、止揚されている」ようにすることだ。そのためには「構成」が必要である。すなわち、「歴史の均質な経過のなかから、ひとつの特定の時代を打ち出す。さらに時代から特定の人間を打ち出し、その人間の仕事から特定の仕事を打ち出す」ことである。
 哲学者が「別の時間性を有した」生き存える言葉から、概念を取り出し、普遍化し、現在の意味に転化する、これが哲学者の役目が「救済」と述べられる理由です。
 
 
 さて、中島隆博氏は、こうした翻訳=救済を中国学を介して行っています。
 しかしながら、その一方でたびたび中国学がそうした哲学を行えない環境になっていたことを憂いています。
 「中国哲学を批判可能な哲学の言説として脱構築」するという中島氏の仕事は、これから中国学者によっても継承されなければならないでしょう。