この「道」の不思議な性質は、1を何回割っても0に辿りつけないことや、数字をどれだけ増やしても無限に到達できないことと似たようなパラドックスがあり、結局のところ実践して感じる他ありません。
しかし、私もそうであるように、「なぜ道がそのような性質であるのか」、「どうしたらそれがあると考えられるのか」などといった、「道」についての様々な疑問について論理的な説明をしてほしい、という欲求もあるでしょう。
今回はこうした疑問をどのように解決していくのか、「道」について考える時の方法を少しだけ述べさせて頂きたいと思います。
二つの科学的認識の方法
私たちは通常、経験的認識か合理的認識によって物事を把握しています。経験的認識というのは、空は青い、とか、お風呂に長く浸かっているとふやける、とかその理由は分からないのに経験的に知っている物事のことを言います。
対して合理的認識というのは、走っている車を人が素手で止めることはできない、とか、空気のないところでは生きられない、とか経験はしていなくても理論的に知っている物事を言います。
これらの考え方が飛躍的に進歩したのは、17世紀のヨーロッパで、フランシスベーコンに代表されるイギリス経験論、デカルトに代表される大陸合理論というような言い方をよくされています。
しかし、こうした高尚な議論を待つまでもなく、私たちが経験的な思考か合理的な思考、もしくはそれら両方によって物事を認識していることは想像に難くありません。今、あなたがテレビをつけて、窓の外を見て、人と話して、認識できないことはないと思います。
直感的認識
では、「道」について考えようと思った時、これら二つの認識で理解することができるのでしょうか?結論を先に言えばそれは不可能です。「道」を理解する方法はこれらの科学的な認識ではなくて非科学的な認識、つまりは直感的認識に頼らなければいけないのです。
このように言ってしまうと、この「道」というものがトンデモな何かに感じられるかもしれませんが、そうではありません。
「直感的認識に頼らなければ理解できない」ということは、「科学的な手法によっては理解できない」ということなのです。
今まで人間は、理解できない超越的なものに対して、例えば「神」や「常世」などといった絶対的な存在を措定することで解決を試みてきました。これらは今もなお科学によって解明されていない分野でもあります。分かりやすい例で言えば、運命であったり、神がかりと言われるものがこれに当たるでしょう。これらの言葉は、分からないことをどうにか理論付けようとして作り出された言葉なのです。
「道」と科学
では、「道」とは何かを改めて考えてみれば、何か分からない超越的なはたらきを仮に「道」と名付けたもの、であることが分かります。これには一定の法則や統一性もあるのですが、それを言語化することはおろか認識することもとても難しいものです。
科学的に理解、認識することが不可能だから直感的にそれを認識するしかない、ということなのです。
しかし、こうした直感的認識に頼らなければならない段階の手前、つまりは本当の理解の手前までは、経験的認識や合理的認識によって理解されうるものでもあると考えるのが科学者の立場です。そのため、研究をして、言葉を用いて「道」について述べる人々がいるのであり、彼らはそれによって「道」に近似したものを我々に教えてくれるのです。
もし「道が結局のところ何なのかを知らないと納得ができない」という人がいれば、こうした人々の著作を読めば、その外形の一端を知ることができるでしょう。