今月は二つの大学が日本文化体験として三光院の精進料理と作務禅を体験しに来てくれます。
そのうちの一つの大学はもう今回で三回目
もう一つの大学は留学生が半分で今回が初めてとなります
名称を控えるのは小泉倖祥住職からクレームが入るからです。
今月、日本文化体験プラットフォームotonamiから三光院関連記事が全て削除となりました。
今月、社会福祉協議会と一緒に育ててきた集まりが全てなくなりました。(引きこもり支援作務作業、依存症ミーティング、子ども食堂に付随するフードバンク受付)
どちらも小泉倖祥氏からの執拗な通告を受けてのことでした。otonamiさんはもう何度も繰り返されたのもあり、今回撤退となりました。
公判の中で小泉倖祥氏は「三光院の料理は檀家がいなからやっているだけであって、伝統と呼べるようなものではない」と表明し、現在も精進料理の廃業と、西井香春先生の退去、ライフラインの全面ストップなどを通告してきております。
一体、誰が得するのでしょうか?得したいってことでしょうけど。
ちなみに三度目になる冒頭の大学においても、このような通告がある状況を理解した上で参加が募られたということです。
必死に潰そうとしてくれていますが、おかげさまで満席ではあります。
さて、留学生にも三光院の精進料理を説明する必要があるわけですが、通訳も挟む解説となると、詳細な説明をする時間も確保できません。
どこを取り出して、どう説明するのか?
現住職が必死に潰そうとする三光院の精進料理。
これを守ってきた側の説明を今後記していきます。
それぞれの詳細については、また追って報告します。
ありがたいことに研究者が何名かいらっしゃいますので、それらの方に検証考察、及び講義もしていっていただく予定でいます。
(事前に発表するとまた妨害されてしまいますので、興味ある方は是非三光院関係者と連絡を取り合ってみてください)
」
『竹之御所流精進料理について』
比丘尼御所と呼ばれる尼寺で継承されてきた料理になります
比丘尼御所の特徴とは?
公家以上の家庭から元皇女を住持として迎え入れてきた格式の高いお寺になります
"Bikuni-gosho" is a high-ranking Buddhist convent traditionally headed by a princess or a noblewoman.
※比丘尼御所を含めて、なるべく現地音をそのままに伝えた方が良いはずです。無理な翻訳をすると余計に誤解が強まるかと思われます。
比丘尼御所は檀家制度(信徒制度)をとっておらず、日本の仏教寺院によくある葬儀葬祭や墓地を家業として運営維持しているお寺ではありません。
三光院で継承されている料理の始まりは、その比丘尼御所の代表的な寺院でもあった通玄寺にあります。今ではもう存在もしないお寺です。
御所流精進料理は通玄寺、曇華院、三光院と繋がれてきて、今日ではもう三光院でしか提供されていません。数年前に護国寺さんで提供されていたことはありましたが、それは西井香春先生の生徒さんが所縁があったからです。
基本的には石高、及び、時代が降っても貴族階級からの保護で運営されてきたお寺になります。したがって近代まで一般人に解放されてきませんでした。現在でも三光院の本院ともいうべき曇華院(通玄寺を逆吸収)は期間限定の特別開放しかしていません。
※まず留学生には事前にこの程度の説明くらいがちょうど良いような気がしますが、いかがでしょうか?
以下はもう少々、深掘りした背景です。
』
通玄寺の御開基は智泉尼(順徳天皇の曾孫)ですが、実質的に創建したのは足利義満です。義満が自分の祖母のために資金的なバックアップをして建立しました。
当時の政治状況と室町幕府の戦略を結論から説明すると、通玄寺を「建てる必要(政治的目的)がまず先にあり、そのために最高権威である皇室の血(智泉聖通)を招き入れた」というのが、歴史実態に最も近い経緯です。
足利義満が室町幕府の権力を盤石にするために「皇室の血を戦略的に利用した」というのが正確な構造になります。
1. なぜ尼寺を建てる必要があったのか(政治的目的)
足利義満が通玄寺をはじめとする「京都尼五山」を整備した最大の理由は「京都の有力な門跡や公家社会を、幕府のコントロール下に置くため」です。
当時は、天皇の娘や公家の娘が出家して尼寺に入る文化がありましたが、それらの寺院が個別に大きな経済力や権威を持つと、幕府にとって統治の障害(反抗勢力の拠点)になるリスクがありました。
そこで義満は、幕府が公認・管理する「尼五山」という監理体制を作り、その頂点に通玄寺を据えることで、高貴な女性たちが集まる宗教界のトップを幕府の支配下に置こうとしました。
2. なぜ「智泉聖通(順徳天皇の曾孫)」でなければならなかったのか
義満がこの計画を進める上で、どうしても必要だったのが「圧倒的な血統の権威」です。
武家(足利氏)がいくら財政出資をして立派な寺を建てても、公家社会や皇室から見れば「新興の武力勢力が作った寺」に過ぎず、格式を認めてもらえません。京都の頂点に立つ尼寺とするためには、住持(トップ)に最高峰の血筋を迎えることが絶対条件でした。
そこで白羽の矢が立ったのが、順徳天皇の曽孫という輝かしい皇族の血を引く智泉聖通です。彼女を初代(開基)に据えることで、通玄寺は一気に「最高位の比丘尼御所」としての格付け(エビデンス)を獲得することに成功しました。
足利義満にとって智泉聖通尼は生母の母親ですから血縁です。義満には娘が複数いて、その後にやはり比丘尼御所に入寺していますが、娘たちは天皇から見ると女系でしかなく、男系の血筋がある智泉聖通尼の存在が権威づけにはどうしても必要だったのです。
この関係が「信仰心による自然な建立」ではなく「政治的な後付け」であることは、以下の事実から裏付けられます。
義満による経済的囲い込み: 義満は智泉聖通に対して膨大な「寺領(土地)」を寄進し、経済的に幕府へ依存させました。
将軍家の祈祷所化: 通玄寺を「足利将軍家の平穏を祈る寺(祈祷所)」に指定しました。これは、「皇室の血を引く聖なる尼僧に、足利家のために祈らせる」という構図を作ることで、足利家が皇室よりも上の権力者であることを周囲に誇示するパフォーマンスでもありました。
足利義満には「京都の宗教界と公家社会を支配下に置く」という明確な建てる必要性がまずありました。
その目的を達成し、寺の格式を天下に認めさせるための決定的なピース(最高級のブランド)として、後から智泉聖通という皇室の血を合流させたというのが、比丘尼御所の歴史的事実の始まりです。
通玄寺から曇華院へ、そして三光院へと続く御所流精進料理の系譜
智泉聖通尼が、老後の隠居所として通玄寺の境内の東側に小さな庵を結びました。これが「曇華庵(どんげあん)」の始まりです。この段階では、「通玄寺という大きな御寺の中に、曇華庵という塔頭(子院)がある」という関係性でした。
室町時代後期、京都を焼け野原にした応仁の乱(1467〜1477年)により、通玄寺の広大な伽藍(仏殿など)はすべて焼失してしまいます。この消失問題はその後、何度も繰り返されたようです。
大寺院としての通玄寺を元の規模で再建する財力は、戦災後の幕府にはありませんでしたが、智泉聖通尼の系譜を引く「曇華庵」に対して、足利将軍家からの庇護は続きました。 そのため、本堂などの主要な建物を失った「通玄寺」の名跡(名前と格付け)を、焼け残った、あるいは一足早く再興した子院である「曇華庵」が吸収統合するという形をとりました。片方だけが焼け残ったり、同時に焼けたりが何度かあった末と伝わっています。
江戸時代に入ると、後水尾天皇の皇女(尭然女王)や東山天皇の皇女(智成院宮)など、代々の天皇家・皇族の女性が住職として入寺する「比丘尼御所」としての地位が完全に定着します。東山天皇の時代には、特定の尼さんではなく曇華院は寺院としての紫衣の認可も受けています(三光院が茄子の一品料理をなるべく通年出し続ける理由がこの紫)
これに伴い、庵(あん)という控えめな名称から、皇族が住まうにふさわしい格式高い御所を意味する「曇華院(どんげいん)」へと公称が改められました。
現在では、病院の「院」や少年院の「院」が示す通り、「院」という漢字は「垣根に囲まれた一定の敷地や建物・施設」を意味する一般的な言葉になりました。
しかし、中世以降の日本においては、特定の仏教施設が「〜院」と名乗ることが最高峰のステータス。天皇を退位した上皇・法皇の御所を「院(後白河院、鳥羽院など)」と呼んだ歴史に由来します。
ここから派生して、皇族や摂関家の子弟が住職を務める特定の格式高い寺院のことを「〜院」と呼ぶ慣習が成立しました。
単なる「庵(個人の庵室)」から、公的に「院」への改称が認められた背景には、天皇家との直接的な婚姻・血縁関係が公認されたという決定的な手続きがありました。ちなみに現在、一部で使われている門跡寺院という言葉が生まれたのは大正以降になります。
明治新政府は、天皇を中心とした近代国家を作るにあたり、それまで皇族の出家者や特定の寺院に対して慣習的に使われていた「御所」という称号を国家の管理下に置き、次々と廃止・禁止しました。
明治政府は旧比丘尼御所を重要視はしておらず、実際、曇華院は京都府知事から立ち退きを命じられ、強制移転を余儀なくされる立場になっていました。この時代に、皇室からお寺に皇女を移す習慣も禁じられました。それに伴って名称の変換がいくつかあったようですが、大正時代から昭和初期にかけて、門跡寺院という名称が定着していくようになりました。
政府や京都府からも多少軽んじられるくらいですから、比丘尼御所への支援が潤沢に継続されるはずもありません。檀家制度の枠外にあり、一般には開放もされてこなかった比丘尼御所の運営、その転機となった出来事が昭和22年にありました。いわゆる華族制度の崩壊、貴族階級の廃止です。
三光院の初代責任役員でもある飛鳥井慈孝尼門跡は、その家名からも分かるように貴族階級であり、和歌や蹴鞠の権威ある名門公家生まれの方でした。
昭和22年当時、京都御所の所長だったのが宮内事務官 飛鳥井雅信伯爵。飛鳥井慈孝尼門跡(三光院的には御前様)からすると実弟にあたります。※本家の家督をついでいたため、年下なのですが御前様は兄と認識されていたようです。
そしてその飛鳥井京都御所所長が関西圏の門跡たち(旧比丘尼御所の代表たち)を京都御所に集めて「今後は華族は衰退していく。これまでのように支援はできない」といういわゆる突き放しを行いました。支援を打ち切られた門跡寺院は土地の売却に始まり、衰退して廃寺になったり、または大きい寺院に吸収されていくなど、様々な道を辿ることになります。
曇華院もかなりの苦境に立たされたのですが、突き放しから僅か6年後、境内に保育園を開創して、今日まで続く寺院運営の基板に育て上げました。(後年、三光院で幼稚園が開園されるのは、この影響もかなり大きい)
保育園が順調に動いたこともあり、曇華院はどこかに吸収されることもなく、臨済宗単立寺院として檀家制度の枠外で今日まで運営が継続されています。
そんな曇華院、及び、比丘尼御所文化の中で五歳から育ったのが、三光院の初代住職でもあある米田祖栄和尚様になります。一般向けに御所流精進料理を開放された方になります。
通玄寺は時代により、尼五山において寺格実質一位と呼ばれることもありましたが、幕府公式順位においては五位と記録されました。が、義満及びその生母からの莫大なバックアップにより、広大な自領を有していたことに加えて、曇華院に吸収合併された後の時代を通しても、石高だけは一番多くもらってきた比丘尼御所となっています。その石高、初期500石、最盛期684石と伝わっています。
武家大名の数十万石に耳が慣れているとせせこましく感じるかもしれませんが、女官と尼しかいない環境において、この石高はむしろ非常に贅沢な環境だったと言って過言ではありません。したがって三光院に伝わる御所流精進料理は、苦境の時代を経ていたとはいえ、僧侶向けの質素で味気ないイメージが伴う僧堂料理とは明確に異なります。
三光院の御所流精進料理の特徴
680年の伝統があるとはいえ、三光院の精進料理は古いものをそのまま作り続けているわけではありません。御所流精進料理は、報道のされ方によっては「お姫様の精進料理」とされたりしますが、実際には元皇女の尼宮様に召し上がっていただくために、無名の尼さんや無名の女官さんたちが作り続けてきた料理になります。したがって、現在の料理人のように、レシピ集を作る、献立を記録する、なんてことがありません。
宮中の女官さんたちが残した日記などに「今年もドンさま(曇華院)から筍のお酢文字が届いた」などの記録は散見されるものの、全体像はあくまで口伝であり、日常の積み重ねの継承となります。また、最終的に三光院で一般向けに開放されたことで、古い献立を作り続けるという選択肢もなくなりました。
三光院は観光寺ではありません。御山に登った、観光に訪れた、そのついでに記念として召し上がる方は一人もいらっしゃりません。また、三光院も(曇華院同様)お檀家さんがいません。したがって一般向けの法事法要は行いません。一般向けの墓地も持ちません。したがって法事法要に付随させて自動的に出てくるお精進を召し上がる方もいらっしゃいません。
三光院の精進料理は、その料理を目的として予約した方でないと召し上がってもらうことが出来ません。要は求め続けられる必要があるため、昔から伝わる行事食を作り続けれるだけではたち行かなくなります。例えば前述した筍のお酢文字でさえ、米田祖栄和尚様と、西井香春先生のレシピには、多少の違いがあります。これは生きている献立というだけでなく、米田祖栄和尚様から星野香栄御住職様が禅寺という環境で完成させた食禅思考によります(食禅についてはまた別の機会に)
以下、三光院に伝わる御所流精進料理の代表的な特徴
一、快敷、飾り花と呼ばれる食べることを目的としない草花がお皿を飾る。
一般的な精進料理では、お皿に乗せられたものは全て食べられるもので構成される、という不文律があります。命を無駄にしない、ということに繋がります。昭和の戦後、寺院経営の一部として精進料理を取り入れたお寺さんの中には、懐石料理の手法を取り入れて派手な草花で飾るところもありますが、本来はありません。
一方で御所流においては、前述の筍のお酢文字の時代からあります。まず筍のお酢文字の包み紙は竹皮ですが、この竹皮に包まれた筍の姿寿司の上に、竹の花が忍ばされることがあったと記録されています。また、関西圏は押し寿司文化で、現在の三光院で小箱の押し寿司として継承されている原型は「人の目を引く引目寿司」。こちらもその層の美しさが女官たちの出身の家柄を示していたとされていますが、その傍に季節の草花を添えたとされています。
こうした元皇女の尼宮様に召し上がっていただくために、食べることを目的としない、いわば視覚を楽しませるために存在していると思われがちな快敷、飾り花ですが、実際にはそれぞれに意味が忍ばされています。(この忍ばせる、も三光院料理の特徴です)
例えば最初の一皿であるお煮しめ。このお皿には必ず快敷として南天の葉が添えられています。古い時代にはいわゆる食中毒がなぜ起こるか分かりませんでした。同じ食材、同じ調理法にも関わらず身体を壊すことがある。時代によっては悪霊のせいにされてきました。なのでこの南天は言霊信仰によります。「難を転じる」です。最初に一皿に「本日の食事も無事に済ますことが出来ますように」との祈りが込められているのです。ただ美しいから、で、お皿に乗ることは実はないのです。
一、お酒も使える御神酒食文化
三光院ではお酒のことを女房詞(女官言葉)で「おっこん」と呼び、お食事と一緒に召し上がっていただいております。こちらも他所のお寺さんが「般若湯」「薬湯」と呼びつつ誤魔化しながら飲むものとして扱っているのとは根本的に異なります。なぜなら三光院ではお酒は飲むだけでなく、料理にも使うからです。一方で味醂は使いません。
三光院は比丘尼御所の文化です。比丘尼御所では、仏様、神様、皇室を等しくお祀りする文化があります。これはいわゆる神仏習合とは背景が異なる、設立からの文化です。何せ寺院を建立するのに皇室の血を求めたほどですからね。
神様をお祀りしますから御神酒文化があります。神様にお供えするのが御神酒(ごしんしゅ)、それを降りいただくのが御神酒(おみき)になります。味醂を使わない表向きの理由は、味醂は神様に捧げないからです。アルコールを何でも使って良いのではなく、あくまで神様にお供えする日本酒は使える。ワインや焼酎を使うことはございません。ちなみにこれは公言するようなことではないのですが、味醂は関東の比較的新しい文化でもあり、西で典座を長くやっていた価値観では「美味しいお酒がないから味醂なんて使っているんでしょ」なんて自負もあったりしたようです。
一、擬き料理は存在しない
一番有名なのが雁の肉を模して作られたガンモドキですが、肉や魚を再現してみる調理方法は、特に普茶料理と呼ばれる中国僧由来の精進料理には多く見られます。
一方で御所流においては、擬いてまで生臭物を求めるというのが下品な行為だと認識されてきたので、擬き料理は現在でもございません。
例えばガンモドキと同じ調理方法である豆腐を潰して揚げたものですが、三光院では松笠という料理があります。こちらは米田祖栄和尚様が、昭和の武蔵野でその静かな早朝の境内で、松笠(松ぼっくり)が爆ぜる音で目覚めたと。その音の美しさに感動してその日の夕食に創作されたのが、松ぼっくりの形を模した松笠になります。快敷として常緑の松葉も添えられました。
また、米田祖栄和尚様は五歳で大聖寺に入寺したわけですが(八歳で曇華院に移る)、その前にカツオの刺身を一切れ召し上がったのを最後に、お亡くなりになるまで一切の動物性食品を召し上がりませんでした。これは後年、星野香栄御住職と西井香春先生がディレクションする形で放映された京都尼門跡のニューヨーク旅行でも一貫されていましたが、曇華院の人間だけは旅行中、例え寿司屋に寄ったとしてもカッパ巻き以外は召し上がらなかったと記録されています。実際、これは我慢の話ではなく、幼少期からの習慣ですとそもそも受け付けなくなるそうです。
反面、星野香栄御住職様は、三光院幼稚園延長時代はまだ剃髪もしておらず、出家後も生臭物も好む方でした。そんな香栄御住職様が、自身の好物であるイカの天ぷらを、米田祖栄和尚様にも味わっていただきたいと創作したのが、ニャク天になります。米田祖栄和尚様は食べたこともないですし、それを求めたこともない。だから似ているかどうかも分からない。そして正直、イカの天ぷらには似ていません!それでも確かに美味しい!ということになり、三光院では以来、「親孝行の料理」として蒟蒻の天ぷらが献立に加わりました。いずれも、擬き料理とは言えません。
味付けも独特で、揚げ物の魅力を損なわないように、裏にさっと忍ばせております。上から味付けするのでは惣菜になってしまう。精進料理は惣菜ではない、も、御所流のこだわりなのです。
一、禅的思想の加味
その他、伝統的には全て焼き物で構成されており、塗り物を採用してこなかった器(塗り物は白木を長持ちさせるための庶民の工夫であったため、焼き物に比較して下の扱いを受けてきた)
時間をかけて淡味(素材そのものの味わい)を引き出すために、あえて出汁を使わない料理が大半(季節によってはお吸い物以外に出汁は一切使わない月もある)
発展してこなかった調理方法が擬き料理以外にも複数ある(保存食、燻製料理など)
お茶は特別なものとして献立の中に組み込まれているので、食事中の潤いはあくまでお水(またお酒)
料理は作りたてが一番美味しいとの価値観から、作りながら一皿づつ提供される。などなど。
竹之御所流三光院精進料理には他の精進料理にはない際立った特徴がいくつもあるのですが、表向きには感じられない最大の特徴が、この禅的思想の加味となります。
『雅寂』と呼ばれる三光院の精進料理の特徴は、宮中及び比丘尼御所由来の雅さと、禅寺の侘び寂びの融合とされます。『皿の上の禅』とも海外メディアから評されてきましたが、その最大特徴が基本的には公開されません。それが禅的思想の加味です。
来院者に提供するからには、あくまで禅的思想の加味が必要とされます。三光院の精進料理は求められ続ける必要があるため、新しい献立が導入されることも少なくありません。これは行事食も同様です。※行事食とはその時期になれば決まって作る定番の食事(例:お正月にお花びら、端午の節句に蓬餅、七夕におぞろ(素麺)、中秋の名月におうどん、など)
「文化は自分たちで楽しまなければ続かない」というのが星野香栄御住職様の言葉で、演出を含めた工夫は、毎年毎年の担当者に任されます。
かといって、楽しければ、美味しければ、なんでも投入できるのかと言えばそうはなりません。美味しい野菜料理と、精進料理が同義であるならば、それはもうお寺でやっているだけの飲食店となってしまうからです。
例えば東山天皇から紫衣の認可を受けて紫色を重要視している御所流において、茄子のお料理は重要です。他に紫色の和野菜は存在しないからです。三光院の定番である『お茄子のおでん(味噌料理の女官言葉)』は、星野香栄御住職の創作ですが『木枯らし』という正式名称に禅的思想が加味されています。また、この茄子のおでんには茶葉が快敷として添えられているのですが、この組み合わせに辿り着くまでに、米田祖栄和尚様は十年の月日をかけたと伝わっています。
来月六月は紫陽花の季節。一般的には毒があるとして(実はそんなことないんですが、詳細はまた別の機会に)食とは切り離される紫陽花がお皿を飾る料理が「インドのウサギ」です。基本的には境内で水色の紫陽花が咲く間だけの提供となります。
こちらの料理は西井香春先生がまだ西井郁でもあった時代、フレンチの料理教室を六本木で主宰されており、そこに星野香栄御住職が見学に行かれていた。そして西井先生の手つきを見て、これを精進料理に活かせないか?といわば二人の合作として生まれた三光院にとっては比較的新しい人気料理になります。もちろん非常に美味しいわけですが、美味しければ出すわけではありません。美味しい上での禅的思想の加味、それを名前に忍ばされているのです。
※禅的思想の加味とは何か?なぜわざわざ加味しておきながら公開を前提としないのか?これはまた食禅、作務禅と深く結びついた話で、簡潔にお伝えする技術を筆者は持ち合わせておりませんので、また別の機会に長文にて!
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