「食禅」という言葉をご存知でしょうか?文字通り、食を通して禅と向き合うことです。  三光院では「作務禅」と合わせていわゆる形式禅より重要に捉えています。  形式禅とは一般によく知られた座禅をはじめ、立禅、歩行禅、寝禅など、形を決め、特別の時間を設けて禅と向き合うことです。○

西井先生は食器を洗うのに洗剤を使いません。それは三光院の料理には洗剤でなければ落ちないような食材が使われていないとの考えによります。  しかし台所にはヤシの実洗剤も、支援者さんから寄付された有名な洗剤も保管されています。それはなぜか?  作務禅においては誰にでも当てはまる絶対解はないからです。△

 

西井先生には生徒さんは多いですし、料理提供には多くの御奉仕さんやバイトさんの協力が不可欠です。が、数少ないお弟子さんも含めて、洗剤を使わない理由は説明されません。 それは昭和的な「見て盗め!いわずでも理解しろ」とは根本から異なります。作務禅においては、其々の答えがあるだけ、が基本となります△

 

お弟子さんの中には先生を真似て洗剤を使わない方もいます。一方で先生の行動に興味もなく洗剤をガシガシ使う方もいます。そのどちらが正解かは、他人には分かりません。 単に西井先生がそうしているから真似ているなら、自分の考えを放棄しているだけですし、考えた末に洗剤を使うなら立派な食禅△

 

形式禅における禅問答では、参考書の解答や台本があることも珍しくありません。師匠が正解を知っており、弟子はその答えにたどり着くために修行するような姿勢です。 作務禅では誰にでも共通する正解はそもそも有り得ない。ましてそれを強制することは原理主義に繋がると捉えます。 同じ課題に対する答えはもちろん、正解も人其々が基本と考えます△

 

 食べるだけの食禅、作るまでを含めての食禅、作るだけの食禅、食材生産までを考えての食禅、処理まで実行しての食禅。食禅の捉え方も人それぞれで、広ければ良いでもなし、狭いから悪いでもなし、です。食べるだけでも食禅食悟(食を通して悟流)は可能と考えます。姿勢、形は個々人次第です。△

 

 答えはある。が、正解はない。正確には、正解は他人が判定してくれず、自分で導き出すしかないのです。では自分がそう思えば何でも正解なのか?これまたもちろん違います。それでは単なる独りよがりです。だから簡単ではありません。

 三光院の料理についても、これまであまり解説してきませんでした。△

 

 三光院の竹之御所流精進料理、食禅、作務禅。これらは解説することで、説明掲示をすることで理解してもらえるものではありません。博物館や美術館で芸術に触れる時に、解説や説明は理解の促進に役立っていますが、往々にして分かったつもりになって満足して終わることが大半ではないでしょうか?△

 

 かといって何も目星がないままだと、単なる誤解に基づいた評価で終わることが多いのも事実です。過去の歴史でさえ、誰にとっても共通の事実になることはありません。現時点での自分の信念が、未来永劫変わらないと確信しているのなら、それは単なる頑固者で考えを放棄しているだけかもしれません。

 三光院の精進料理を切っ掛けにして、作務禅、食禅についても知り、考える機会にしていただければ幸いです。難しく考えて欲しいわけではありません。三光院の精進料理は美味しいです。それをより楽しんで欲しいのです。そのための手がかりを共有していきます。□