「裁判」と「判決」の混同「日本は東京裁判の諸判決(Judgments)を受諾し、それを遂行する」 | 産経新聞を応援する会

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【正論】上智大学名誉教授・渡部昇一 政治家・官僚にお願いしたい事 2008.10.10 03:46

 

≪「卑屈度」が増すばかり≫

 麻生太郎さんが総理になられた。麻生さんのお考えには共鳴するところが多いのだが、安倍晋三内閣の外務大臣の時の「日本は東京裁判を受諾して国際社会に復帰した」との発言には重大な錯誤があったと思う。しかもその錯誤は多くの保守系の政治家や官僚、そしてほとんどすべてのサヨク系の政治家やジャーナリストの強い「思い込み」になっていると思われる。改めて訂正をお願いしたい。

 戦後を体験した人間として不思議に思うのは、敗戦直後の日本の政治家が、チャイナやコリアに卑屈でなかったことである。それが講和条約締結から時間が経(た)つにつれて、だんだん卑屈度が増してきているという印象があるのだ。その理由としては、ハニー・トラップやマネー・トラップ(女性やお金の誘惑)が利いているのだと推測する人も少なくない。それも少なからぬ効果を発揮しているのだろうが、もっと深いところで、サンフランシスコ講和条約第11条についての外務省の解釈がいつの間にか変わってきたことに、日本政府を卑屈にさせる根本原因があると考えられるのである。

 ≪「裁判」と「判決」の混同≫

 その第11条は、「日本は東京裁判の諸判決(Judgments)を受諾し、それを遂行する」という主旨(しゅし)のものである。ところが、外務省はいつの間にか「裁判」と「判決」を混同し、それを政治家にレクチャーし続けているのだ。たとえば今を遡(さかのぼ)ること23年前の昭和60年11月8日の衆議院の外務委員会において、外務省見解を代表した形で、小和田恒氏は土井たか子議員の質問にこう答えている。

 「…ここで裁判(極東国際軍事裁判=東京裁判)を受諾しているわけでございますから、その裁判の内容をそういうものとして受けとめる、そういうものとして承諾するということでございます」

 この時点で日本の外務省の正式見解は、裁判と判決をごっちゃにしているという致命的な誤りを犯しているのである。

 例の第11条を読んでみたまえ。そこには「諸判決(Judgments)を遂行する」としている。もしJudgmentsを「判決」でなく「裁判」と訳したら、日本政府が遂行できるわけはないではないか。東京裁判を遂行したのは連合国である。その裁判所は死刑の他に無期刑やら有期刑の諸判決を下した。その諸判決の期間が終わらないうちに講和条約が成立し、日本が独立したので、「その刑期だけはちゃんと果たさせなさいよ」ということである。

 東京裁判は、いわゆるA級戦犯の誰も受諾、つまり納得していない。たとえば東条英機被告の『宣誓口述書』を見よ。受諾したのは判決のみである。他の被告も同じだ。これは敗戦国の指導者たちとして捕虜状態にあるのだから逃げるわけにゆかないのだ。

 ≪東京裁判の誤った評価≫

 裁判と判決の区別を小和田氏はしていない。小和田氏を代表とする外務省の見解は日本政府の見解として、政治家を縛っているのだ。裁判受諾と判決受諾は全く別物であることを示している古典的な例で言えば、岩波文庫にも入っている『ソクラテスの弁明』である。

 ソクラテスはアテネの裁判で、青年を堕落させたというような罪で死刑を宣告され、獄に入れられた。ソクラテスもその弟子たちもその裁判には不服である。ソクラテスは脱獄をすすめられた。しかしソクラテスはそれを拒否する。「この裁判は受諾し難いが、その判決を受諾しなければ、法治国家は成り立たないからだ」と言ったのだ。

 裁判と判決の違いの現代的例を一つあげておく。これは前にあげたこともあるが、実にわかり易(やす)い例なので、外務省の人にも容易に納得していただけると思う。

 戸塚ヨットスクールで生徒が亡くなったので、戸塚宏氏は暴行致死、監禁致死で告発され、入獄数年の刑に処せられた。彼は裁判に納得しなかったが、法治国家の市民として判決に服して入獄した(ソクラテスと同じ)。獄中で彼は模範囚であり、何度も刑期短縮の機会を提供された。しかし、彼はすべて拒否した。というのは刑期を短縮してもらうためには「恐れ入りました」と言って裁判を認めなければならない。彼は業務上過失致死以外の罪状に服することを拒否し、刑期を満期勤め上げて出てきた。

 東京裁判はマッカーサーの条例で行われたものであるが、後になって彼自身がアメリカ上院で日本人が戦争に突入したのは主として「自衛」のためだったと証言しているから、「侵略」戦争の共同謀議というA級戦犯の罪状のカテゴリー自体も消えていることを外務省に知ってもらいたい。(わたなべ しょういち)


以上URL:http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081010/plc0810100347002-n1.htmより転載

 

サンフランシスコ講和条約第十一条の疑義を晴らす

 ー誤訳を訂正し、新たなる出発を期待す
 

   日本は、昭和二十六年九月八日、サンフランシスコで連合国と講和条約を結び、独立国家として国際社会へ復帰しました。つまり、国際連合加盟国として認められたのです。翌年の四月二十八日午後十時三十分、サンフランシスコ講和条約は、発効となりました。日本の国際社会復帰の時です。

    講和条約十一条[戦争犯罪]の条文には、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。」という箇所があります。

     講和条約は、英語とフランス語、スペイン語  、そして日本語の四カ国で作成されました。前述の条文で、「裁判を受諾し」という箇所がありますが、これは「裁判」でなく、「判決」と訳するのが正しい訳だと指摘されています。つまり、講和条約に記載されている「the judgements」は「判決」と訳するのが正しい解釈で、何故当時の外務省が、それを「裁判」と訳したのか、今のところ定かでないようです。

   スペイン語では「las sentencias」とあり、それは「判決」または「宣言された刑」を意味するそうです。  

    つまり、「連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し」と訳するのが本当なわけです。

   何故、「裁判」と「判決」の違いにこだわるのかというと、「裁判を受諾する」というのは、東京裁判を認め、東京裁判史観を正当なものとして受け入れることになるからです。

   つまり、東京裁判で「平和に対する罪」としてあげられた「共同謀議して侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行して、世界の平和を攪乱した」という罪で罰したことを、認めることになるのです。

   但し、「判決を受諾し」と読めば、裁判そのものの正当性は認めないが、東京裁判の判決には従いますよ、という解釈ができるわけです。

   東京裁判を支配し、実施したマッカーサー元帥は、母国に帰った二年後の昭和二十五年十月に、ウェーク島でトルーマン大統領と会談し、「東京裁判は誤りだった」と告白しています。また、翌年の五月三日、米上院議会軍事外交合同委員会の聴聞会で、聖書に誓い、「日本は自衛のための戦争をした」と証言しています。つまり、大東亜戦争を自衛のための戦争であったと証言したのです。その一文を紹介します。

     日本は八千万人近い厖大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解して頂かなければなりません。

    その半数近くが農業人口で、後の半分が工業生産に従事していました。

      日本は、絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無いのです。

     彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫がない、ゴムが無い。

     その他、実に多くの原料が欠如している。

     そして、それら一切のものがアジアの海域に依存していたのです。

     もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百の失業者が発生するであろう事を、彼らは恐れていました。従って、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。(「Yahoo!JAPAN/検索・マッカーサーと東京裁判ー[日本の戦争を自衛戦争と証言したマッカーサー〕」より)

 

    東京裁判を実施した張本人が、東京裁判が誤りであったと言っているのに、当事国の日本が、「東京裁判は正しい裁判でした」と、国際社会に表明するのは、全く滑稽なことです。

     昭和二十七年六月七日、日本弁護士会は、「平和条約第十一条による戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に伝えました。これが契機となって、戦犯釈放運動が全国規模で広がり、地方自治体が約二千万、各種団体が約二千万と、計四千万の署名が全国から集まりました。こうした世論に後押しされて、日本政府は、同年十月十一日、国内外に抑留されているすべての日本人戦犯の赦免減刑を、関係各国に要請しました。そして、議会は、こうした政府を支援すべく、昭和二十七年十二月九日と、二十八年八月三日の二度に亘り、「戦争犯罪による受刑者の釈放(赦免)に関する決議」を与野党を越えた圧倒的大多数の賛成をもって可決したのです。

      これに連動して、昭和二十八年八月には、戦傷病者戦没者遺族等援護法が全会一致で改正され、連合軍の軍事裁判によって処刑された千六十八名の日本人を犯罪者として扱わないことを決定しました。

    そして、彼らの死を「刑死」でなく、「公務死」として認定し、当時、困窮していた戦犯遺族に対して、遺族年金と弔慰金を支給することにしました。

    昭和二十九年には、恩給法も改正され、戦犯への援護措置が拡充されていきました。

    政府は、サンフランシスコ講和条約第十一条の条文にそってA・B・C級全戦犯の赦免・減刑を順次勧告し、了解を取り付け、その結果、A級戦犯は昭和三十一年までに、BC級戦犯は三十三年までに釈放されることになりました。

     その結果、A級戦犯だった重光葵は、鳩山内閣で副総理兼外相に就きました。また、賀屋興宣は池田内閣で法相に就きました。A級戦犯容疑者だった岸信介は、内閣総理大臣まで務めました。こうして、政治的には、東京裁判の束縛から解放されていったわけです。

    また、靖国神社では、厚生省から届く祭神名票を基にして、昭和三十四年からBC級戦犯の合祀を始めました。

   A級戦犯については、昭和四十一年に祭神名票が届けられました。その後、崇敬者総代会が、昭和四十五年にA級戦犯合祀の方針を決めました。

   しかし、時期については、宮司一任となり、五十三年に就任した松平永芳宮司が改めて総代会で確認した上、絞首刑となった七名、獄死した七名の計十四名のA級戦犯を合祀することにしたわけです。

    ですから、東京裁判については、サンフランシスコ講和条約で誤訳によって「裁判」を受諾すると解したとしても、発布以後国内法で戦争犯罪法廷で戦犯とされた人たちすべてを「公務死」と決定したわけですから、わが国には、すでに戦犯はいないし、成立もしないことになるわけである。

    しかも、スペイン語のサンフランシスコ講和条約第十一条には、「連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、」と記しているということですから、明らかに日本語文は誤訳であるということを実証していると思います。

   また、英語の訳からしても、「判決」と訳すのが正しいということであれば、ことさら講和条約第十一条は東京裁判の正当性を受諾した内容でないことは、自明の理だといえましょう。

外務省の近代史の歴史認識は、「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました」という見解だそうです。サンフランシスコ講話条約をベースにした見解なのだと思います。

   サンフランシスコ講和条約によって、日本政府は、東京裁判史観に基づき、大東亜戦争をアジアへの侵略戦争であったという立場を、いつまでも取るべきでないと思います。戦後の歴代内閣総理大臣の中には、大東亜戦争を侵略戦争とし、アジア諸国に多大なご迷惑をおかけしたと詫び、ひたすら謝罪外交を展開してきた人もいますが、もうここらで是正して欲しいものです。

   一四九二年のコロンブスの新大陸発見以来、白人が世界を侵略し、支配してきた世界史を、一九四五年八月十五日の大東亜戦争終結で終止符を打たせた日本の世界史的役割の意義は、実に画期的で大きいものであったことに、日本人はもっと自信をもつべきでしょう。私たちの子孫には、、日本のその勇気ある歩みに自信と誇りを持たせ、そこから世界の平和に貢献する日本の在り方を考えさせるべきだと思います。

    戦後六十年を経た今、東京裁判史観から脱却し、自信と誇りを持った国民として歩み、青少年の育成に務めていくべき時だという思いが募ります。

   なお、以前、療養中の義父田澤邦造(法名、大和松邦)は、「白人のアジア侵略に対する黄色人種の戦いであった大東亜戦争に日本が負けたことにより、これからの人類の行方が、そして、日本の行方がどうなるであろうかと危惧し、涙が止めどもなく流れ号泣した」と、終戦を迎えた時のことを、声涙と共にお話になさったことがありました。私は、それを「歴史の証言」として受け止め、その思いを継承していくのが戦後世代の使命だと思いました。そして、後半の二つの稿は、療養中の義父に日本再生の誓いを込めて上梓させていただきましたことを付記しておきます。

以上shofujuk.cside8.com/20kenpo/007.html より転載

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