大御宝(おおみたからは)、当時の漢字で書くと「大御百姓」(2) | 産経新聞を応援する会

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そしてこれを聞いた教経(のりつね)も、そのことにちゃんと気付いて、
「さては大将軍と組み合えというのだなと心得て、長刀の柄を短く持つと、源氏の船に乗り移り乗り移りして、義経殿はいずや、義経殿はいずこと大声をあげながら、敵の総大将である源義経を探し求めた」わけです。
ここも重要な点です。
教経は、知盛の言うことをちゃんと理解し、「長刀(なぎなた)の柄を短く持った」のです。
これが何を意味するかというと、普通は、薙刀(なぎなた)は柄を持って、刀の部分で敵を斬り伏せます。
ところが「柄を短く持つ」というのは、刀身を後ろにして、薙刀の柄の部分だけを使って、襲って来る雑兵たちを殴り倒した、ということなのです。
つまり薙刀で、相手を斬り殺すのではなく、薙刀の柄を使って、相手に打撃を与えるだけで命は奪わないように得物を使ったのです。
武家は、民百姓を護るためにこそ存在する
ならば、その武家が、民百姓の命を奪ってどうする?
だからこそ、教経は、薙刀の歯を使うのをやめにしているのです。
戦いですから勝敗は大事です。
けれど、どんなに厳しい戦いのさなかにあっても、何のために戦っているのか、自分たちの果たすべき役割は何なのか、そういう明確な意識が、知盛にも教経にも、ちゃんと備わっていたということが、この短い一節の中に、込められている。
教経は、義経を探すわけですが、残念なことに教経は、義経の顔を知りません。
そこで鎧甲(よろいかぶと)の立派な武者を義経かと目をつけて走り回ります。
ところが義経は、まるで鬼神のように奮戦する教経の姿に、これは敵わないと恐怖を持ちます。
他方、部下の手前、露骨に逃げるわけにもいかない。
そこで教経の正面に立つように見せかけながら、あちこち行き違って、教経と組まないようにしました。
ところが、はずみで義経は、ばったりと教経に見つかってしまう。
教経は「それっ」とばかりに義経に飛びかかります。
義経は、あわてて長刀を小脇に挟むと、二丈ほど後ろの味方の船にひら~り、ひら~りと飛び移って逃げるわけです。
これが有名な「義経の八艘飛び」です。
教経は早業では劣っていたのか、すぐに続いては船から船へと飛び移れない。
そして、今はこれまでと思ったか、その場で太刀や長刀を海に投げ入れ、兜(かぶと)さえも脱ぎ捨てて、胴のみの姿になると、
「われと思はん者どもは、寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、ものひとこと言わんと思ふぞ。寄れや、寄れ!」
(われと思う者は、寄って来てこの教経と組みうちして生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝に一言文句を言ってやる。我と思う者は、寄って俺を召し捕ってみよ!)とやるわけです。
ところが、丸腰になっても、教経は、猛者そのものです。
さしもの坂東武者も誰も近づけません。
みんな遠巻きにして、見ているだけです。
そこに安芸太郎実光(あきたろうさねみつ)が、名乗りをあげます。
安芸太郎は、土佐の住人で、なんと三十人力の大男です。
そして太郎に少しも劣らない堂々たる体格の家来が一人と、同じく大柄な弟の次郎を連れています。
太郎は、
「いかに猛ましますとも、我ら三人取りついたらんに、たとえ十丈の鬼なりとも、などか従へざるべきや」
(いかに教経が勇猛であろうと、我ら三人が組みつけば、たとえ身の丈十丈の鬼であっても屈服させられないことがあろうか)
と、主従3人で小舟にうち乗り、教経に相対します。
そして刀を抜いて、いっせいに打ちかかる。
ところが教経は、少しもあわてず、真っ先に進んできた安芸太郎の家来を、かるくいなして海に蹴り込むと、続いて寄ってきた安芸太郎を左腕の脇に挟みこみ、さらに弟の次郎を右腕の脇にかき挟み、ひと締めぎゅっと締め上げると、
「いざ、うれ、さらばおれら、死出の山の供せよ」
(さあ、おのれら、それでは死出の山へ供をしろ)
と言って、海にさっと飛び込んで20歳の若い命を散らせます。
まさに勇者の名にふさわしい最後を遂げたわけです。
平家物語といえば、その冒頭の言葉、
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祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、
ひとへに風の前の塵に同じ
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という書き出しがとても有名です。
けれど平家物語は、権力に驕った清盛や、「平氏にあらずんば人にあらず」と暴言を吐いた平時忠などを描く一方で、勇敢に戦い散って行った平教経のような若武者、「雑兵を殺すでない」と激しい戦いのさなかでさえも、庶民の命を大切にしようとした平知盛など、その心根の素晴らしさを描いています。
そうした素晴らしい人たちさえも、風の前の塵にと同じように散っていく。
その無常観を通じて、平和でいることのありがたさ、権力の虚しさ、勇敢な若者の美しさなどを描いているわけです。
ややもすると、このシーンでは「義経の八艘飛び」、義経の身軽さばかりが強調されるようですが、実はそうではなくて、平家物語は、知盛や教経を通じて、武門の長と民百姓の関係を、見事なまでに描ききっているわけです。
こうして壇ノ浦の戦いで、平家は滅び、壇ノ浦の戦いで命を救われた建礼門院を、後白河法皇が大原にお訪ねになり、昔日の日々を語り合う場面で、語りおさめとなります。
琵琶法師の語る平家物語は、実に色彩が豊かで、まさにそれは総天然色フルカラーの世界。
その公演が、一話2時間くらいで、12話で完結です。
二時間分の話し言葉というのは、だいたい2万字ですから、法師の語る平家物語は、全部でだいたい24万字、つまり、いまならちょうど本2册分くらいの分量です。
そしてそこに描かれる世界は、美しさと儚さ(はかなさ)が同居する、とても感動的なストーリーで、それだけの文芸作品が、なんと13世紀頃にはできあがっていたというのだから、これまたすごい話です。
平家物語は、戦後もたいへんに日本人にとっては親しまれていて、NHKの大河ドラマでも、昭和47(1972)年に仲代達矢が主演した「新平家物語」、平成24(2012)年に松山ケンイチが主演した「平清盛」なども放映されています。
ただ、戦後に小説化された平家物語は、これまたたいへん不思議なことに、原文の平家物語にある、上に述べたような知盛や教経の、天皇の民をどこまでも大切にしようとした武将たちの葛藤や、美しさのようなものが、なぜか華麗にスルーされています。
むしろ教経などは、平家方のただの暴れ武将のような扱いになったりしていて、物語の通底する一番大切な日本的心が、なぜかどこかに飛んで行ってしまっているかのようです。
(とりわけ平成17年のNHKの「平清盛」に至っては、もはや平家物語ではなく、韓流ドラマになってしまっているかのようです。下に動画を掲示しますので、ご覧になってみてください。)
先にご紹介した、義経記の静御前や、枕草子、あるいは平家物語など、どうもいまのままでは、そこにある日本的心が、加工され修飾されていくうちに、どんどん削がれていってしまうような気さえもします。
時間がかなり厳しいのですが、近々、「ねずさんのわかりやすい『小説・平家物語』」なんてのを書いてみたいなと思ったりしています。