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丹羽春樹先生のブログから
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わが国の論壇は、今こそケインズ主義復権に決起せよ

  中谷巌氏「懺悔の書」への重大な疑問 「懺悔の書」と銘打って、昨年の12月に公刊された中谷巌氏の著書『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社)は、たしかに読み応えのある力作であり、一年経った現在でも、どんどん売れているベスト・セラーズのようである。この本に接した読者は、著名な経済学者である中谷氏が、あえて「懺悔」だと述べた態度とともに、同氏が、社会思想史や文化史などの領域についても、非常に造詣が深い知識人であることに、強い印象を受けたはずである。私(丹羽)もそうであった。

 ただし、この中谷巌氏も、肝心の経済史・経済政策史で、一つの大間違いを書き記している。同氏は、米国で、ルーズベルト(FDR)大統領が、なんとまた、第二次大戦の「戦後になって!?」、単なる景気対策にとどまらず、所得の平等化など、福祉政策にも力を入れたと書いているのである(同書、42ページ)。

言うまでもなく、ルーズベルトは、戦中の1945年(昭和20年)4月12日に病死している。当時のわが国の鈴木内閣は、そのとき、敵国米国の国民に対して深く弔意を表する旨の告知措置を行なったのである。そのようなわが国の武士道精神を体現した態度は、当時の、全世界の識者の多くから、賞賛されたのであった。中谷氏が、このような有名な史実さえ忘れてしまっているらしいということは、残念というよりも、むしろ、やや腹立たしい想いにかられざるをえない。

 しかし、私は、この中谷氏の著書を読了したとき、上記のような感想とともに、重大な「疑念」を持つにもいたった。すなわち、わが国の経済学界ならびに経済論壇を代表する大家の一人であると目されて、過去20年間にわたってわが政府の新自由主義的・新古典派経済学流の経済政策の策定・実施についても少なからず指導的な役割を果たしてきたのが中谷氏なのであるから、現在の深刻きわまる全世界的な金融の混乱と経済大不況、そして、それに直撃されたわが国の危機的状況に同氏が想いをいたしての「懺悔の書」であるのならば、何をおいても、まず、経済学的な視点からの反省、とくに新古典派経済学プロパーの理論や政策論についての反省的吟味を、隠すところ無く論述すべきであったはずではなかったのか、という疑問である。ところが、奇妙なことに、この中谷氏の著書では、かんじんの、「経済学的な反省・吟味」の論述は、ほとんど全く行なわれてはいないのである。 

過去20年あまり、全世界の主要国の経済政策を導いてきたのは、米国の思想界から発信されて今や強固・激烈な戦闘的イデオロギーと化している新古典派経済学流の「反ケインズ主義」政策論であった。

そして、とくに、ケインズ的有効需要拡大政策を無効であると「理論的に」決めつけたルーカス教授の教説の影響は衝撃的かつ甚大であった。

現在では、この新古典派経済学流の「反ケインズ主義」、なかでもこのルーカス理論が、新自由主義の諸流派を支配し動かしている基本的情念となっているわけである。わが国においても、1990年代の半ば以降の歴代内閣の経済政策、とりわけ小泉=竹中政権時代の経済政策は、ほとんど全て、このような新古典派経済学流のパラダイムと「反ケインズ主義」イデオロギーによって導かれてきたのであった。中谷氏自身も、本人が告白しているように、このようなわが国の新自由主義・新古典派経済学流の経済政策を肯定・促進し、そして破綻させたことに少なからず重要な役割をはたしてきたエコノミストの一人にほかならなかった。

 したがって、本来ならば、中谷氏の「懺悔の書」は、新自由主義・新古典派経済学流の「反ケインズ主義」の理論とイデオロギーを超克するとともに、「ケインズ主義の復権」こそを、真剣に提言してやまないような内容であるべきはずである。しかしながら、同氏のこの「懺悔の書」では、そのような内容を読み取ることは、ほとんどできないのである。 学的良心の欠如による論理矛盾 実は、もともと、中谷氏は、「筋金入り」の新古典派経済学者の確信犯であったわけではなさそうである。中谷氏の著書で、現在でもわが国の諸大学の初級経済学コースで広く教科書として用いられている『入門マクロ経済学』という書物がある。

たとえば、その本の最新版(第5版、日本評論社、平成19年刊)の213ページから220ページにかけての記述を見てみると、中谷氏は、財政政策・金融政策(ケインズ的政策)による総需要拡大がなされても、そして、デフレ・ギャップという形で資本設備や労働力に余裕があってさえも、実質国民所得(実質GDP)や雇用は増えず、ただ物価が上昇するのみという新古典派・ルーカス的なペシミスティックな理論的「定理」を数式とグラフを用いて「論証」している。ところが、それをすぐに引き継いで、中谷氏は、一言の言い訳も説明もせずに、それと全く正反対の結論、すなわち財政政策・金融政策(ケインズ的政策)の効果によって「実質国民所得や雇用が増大する」と述べているのである(同書、220~221ページ)。

すなわち、論理的矛盾が、きわめて明白なのである。さぞかし、中谷氏執筆のこの教科書によって学びつつある諸大学の学生諸君は、すっかり、まごついてしまっていることであろう。 しかし、中谷氏は、このような論理的につじつまの合わない論述を、あえてすることによって、新古典派とケインズ派の両方に、適当に目配りをしているつもりなのかもしれない。それが、「良識的」で「バランスのとれた」態度だとも、思っているのかもしれない。

 事実、この『入門マクロ経済学』(第5版)の終わりに近く、「マクロ経済学を学ぶ意味」と小見出しが付けられている節では、中谷氏は、新古典派とケインジアンの理論上の対立が、そっくりそのまま、現実の政策の対立となってしまっているのが実情であると指摘したうえで、しかし、「どちらか一方の陣営の主張が、明白に他の陣営の主張よりも正しいと言うことはできないように思われる」と、指摘しているのである。

 ところが、すぐそれに次いで中谷氏は、「この両学派の対立を単なる対立として傍観的に観察するのではなく、その対立の中身を吟味し、経済に対する見方を確立すること」によって、両派のいずれを選択するべきかと迫られるときの決断に資するようにすることこそが、マクロ経済学を学ぶ意味であると強調している。其の言辞や良し! しかしながら、上述のごとく、中谷氏自身は、最近著の上掲「懺悔の書」においてさえ、このような彼自身が設定した基本課題への解答を示そうとはしていない。また、そのような解答を示し得なかったことへの自己反省も、書き記してはいない。学的良心の欠如だと評するほかはない。

忘失されてきたケインズ革命の画期的な人類史的意義 上記では、中谷巌氏に対して、やや、きびしく批判しすぎたかもしれない。中谷氏の論述に見られた上述のような問題点は、多かれ少なかれ、わが国のマスコミに登場するほとんど全てのエコノミストにも見られるところである。エコノミストばかりではない。

政治、社会、思想といった諸分野を本領としているような数多くの言論人についてさえも、総じて、同様な問題点を指摘しなければならないのが、わが国の現状であろう。過去二十数年、新自由主義・新古典派経済学流の「反ケインズ主義」イデオロギーの盛行に悪乗りしてきたのは、エコノミストたちだけではなかったからである。敗戦直後に唱道された「一億総懺悔」にならうわけではないが、今は、わが国の論壇の「総懺悔」が必要なときであろう。

 かねてより、私(丹羽)の著作で強調してきたことであるが、「ケインズ革命」の歴史的な意義は、ケインズ的マクロ経済学というサイエンスの確立を武器として、マルクス的な史的唯物論の歴史主義的な決定論・宿命論ニヒリズムと闘い、それを克服する途が人類文明に拓かれたということにあった。この意味で、新自由主義学派の哲学者ではあるが、名著『歴史主義の貧困』を著し、社会工学を手段として、歴史主義的決定論・宿命論のニヒリズムと闘うべきことを叫んでやまなかったカール・ポパーとケインジアン陣営とは、強固な共同戦線を形成しうるはずである。

そして、ケインズ的マクロ経済政策の体系こそが、まさにポパーの望んだ社会工学的実践への、決定的に有効な手段なのである。また、この意味においてこそ、「冷戦」とは、まさに、マルクス対ケインズの闘いにほかならなかった。 このような人類文明史上画期的な人間の自由解放へのブレーク・スルーを意味した「ケインズ革命」の重要きわまる意義を、過去二十数年、わが国の論壇は、そして、とくに、いわゆる保守的陣営の論客たちは、ほとんど全く忘失してきたようである。わが国のみならず、全世界の論壇も、それを忘失(または忘失のふりを)してきたと言うべきであう。

 このような「ケインズ革命の忘失」へ導いた契機のなかでも最も大きく深刻な影響を及ぼしたものが、上述の新古典派経済学グループの指導的学者ルーカスによる、ケインズ的マクロ財政・金融政策を無効だと断定した理論的「証明」であった。これは、「ケインズ革命」そのものの全面的な否認という、人類史的にまさに衝撃的な意味合いを内含していた。

 しかし、実は、このルーカス理論をそのままつきつめていけば、ケインズ的政策の有無などとは無関係に、ただ単に民間活力の盛り上がりで民間投資や民間消費が増えて総需要が拡大したような場合であってさえ、しかも、マクロ的に生産能力に余裕のあるときでさえ、経済は実質的には成長しえず、いわゆる「自然失業率」に対応した経済レベルにとどまって停滞してしまい、にっちもさっちもいかない状況となり、物価だけが高騰するといったことになってしまう。

つまり、市場経済システムであるかぎり、経済の成長・発展は全く望めないとするところの、極度に現実離れでニヒリスティックな結論になるのである。

  これでは、あまりにも奇妙すぎる。そこで、私(丹羽)は、ルーカス理論をよく吟味してみた。すぐにわかったことは、ルーカス理論の体系では、需要の変動があっても、企業が(労働雇用量を変えるだけで)資本設備の稼働率を変化させてそれに対応するようなことはしないものとするという、きわめて非現実的な暗黙の仮定が設定されているということであった。このような非現実的な仮定を設けてしまえば、ルーカス的なペシミスティックでニヒリスティックな「経済理論的な結論」を導き出すことは、きわめて容易なのである。ルーカス教授(ノーベル賞受賞者)のような頭脳明晰な学者が、「うっかりミス」でこのようなことをするはずはないから、これは、一種の意図的な「理論的トリック」であろう。

 私〈丹羽〉は念のために、企業は、労働雇用量とともに資本設備の稼働率も変えて需要の変動に対応しようとするものとするという一般的妥当性の高い想定を設けて、そして、例の「合理的期待(予測)形成」仮設はそのまま導入しておいて、ルーカスの理論体系を再構築してみた。驚くべし、そのように一般化された想定のもとで再構築されたルーカス体系では、総需要が増えれば(そして、デフレ・ギャップという形でマクロ的に生産能力に余裕があれば)、それに応じて実質GDPも増大し、いわゆる「自然失業率」もどんどん低くなって、経済は真の完全雇用・完全操業の状態に近づいていくという理論的結論が得られたのである。

つまり、そのように一般的妥当性の高い想定のもとで再構築されたルーカス体系は、ケインズ的政策に従うようになるわけである。換言すれば、ルーカス体系の牙がぬかれて、ケインズ体系によるルーカス体系の吸収的統合が、見事になされえたわけである。 言うまでもなく、私(丹羽)が得たこのようなファインディングが、きわめて重要な意味合いを持っていることは明らかである。私は、十年ほど前に、このファインディングを学会で報告し、学術論文としてそれをまとめて計画行政学会の学会誌に「特別論説」として掲載( 『計画行政』24巻、3号、平成13年春 )した。私の著書へもそれを収録し、さらには、一般読者向けにそれを平易に解説した論稿も、幾度も公にしてきた。

もちろん、インターネットで検索すれば、このような私の論策はすぐに見出しうる。中谷巌氏が、先輩学者である私のこの「先行研究」業績に気付かれなかったのは、残念しごくである。「反ケインズ主義」思想統制の鉄鎖破砕へ言論人の決起を! 以上の考察で明らかなように、わが国論壇の自己反省・総懺悔が行なはれるべき今日、そのことにおける最重要な課題は、「ケインズ革命」の画期的かつ絶大な人類史的意義の再確認によって、「ケインズ主義の復権」をはかるということであらねばなるまい。言うまでもなく、このことのためには、政治学や社会学、思想史や文化史、等々の、経済学以外の領域を専攻とする知識人、言論人たちがはたすべき役割も、きわめて重要なはずである。

ケインズ体系によるルーカス体系の理論的統合の可能性発見という、私〈丹羽〉の上記の業績についても、その思想史的・人類史的意義が十分に論じられ、確認されるべきであろう。 本稿では、立ち入って詳述しうるだけの紙幅の余裕が無いが、新古典派経済学の、とりわけ、ルーカス体系などの、反文明的とも言うべきニヒリスティックな情念は、明らかにニュー・レフトのそれと通底しあっている。おそらく、1960年代から70年代にかけて米国を浸した「ベトナム後遺症」による挫折感・失望感の広がりが、 この両者を結合させたのであろう。このような点についても、思想史家の透徹した分析がほしいところである。

 実は、私(丹羽)が、繰り返し指摘してきたことであるが、「ケインズ革命」を真に成就させるための不可欠の必要条件は、➀ インフレ・ギャップ、デフレ・ギャップの、経済理論的に正しく信頼度の高い計測結果が利用可能であること、➁ ケインズ的概念での「有効需要の原理」(乗数効果)の作動状況の正確な測定・確認がなされていること、そして、➂「国の貨幣発行特権」の発動による十分に潤沢な財政政策財源の調達方式が是認・確立されること、の3条件である。ところが、過去二十年あまりというものは、わが政府当局(とくに旧経済企画庁ならびに現内閣府)は、この3つの必要条件にぴったりと狙いを定めて、この ➀ ➁ ➂ を、あるいは否認し、あるいは秘匿し、さらには、まぎらわしいミス・リーディングな数値を弄して隠蔽・糊塗をはかるなど、悪質な欺瞞情報オペレーションを徹底して駆使することによって、わが国において「ケインズ革命」が成就されて「ケインズ主義の復権」がなされることを、頑強に阻み続けてきているのである。

 このような頑迷固陋な経済官僚たちによる欺瞞情報オペレーションは、現在では、まさに、わが国の社会全般におよぶところの「反ケインズ主義」イデオロギーそのものによる強固きわまる思想統制システムとなりおおせてしまっている。これこそが、わが国の経済における異常に長引く不況・停滞と、国威の衰退・低落の主要原因をなしているのである。 わが国の論壇人・言論人は、この危機的な真実の事態に目をふさぎ、それを直視しようとはせずにすごしてきた怯堕・小心な従来のスタンスを、今こそ、真摯に反省し、懺悔すべきである。そして、この不条理かつグロテスクな思想統制の鉄鎖を、なんとしてでも打ち砕かねばならぬと、断固として決意すべきである。しかも、そのことを為しうるのは、他でもない、結局のところ、知識人たち自身である。憂国の言論人たちが、志を同じくする編集者やメディア経営者たちと一丸となって、論壇の総力をあげて闘い続けるほかはないのである。知識人たち、言論人たちの決起に期待すること、真に切なるものがあると言わざるをえない。