宋永毅編『毛沢東の文革大虐殺』236頁以下
●周軍陽の証言(1986年当時51歳。教師。虐殺された夫も教師だったがその父が国民党政府の役人)
・文革が始まると夫婦は大山窩横嶺人民公社小路生産大隊で労働改造を課されていた。
・1967年8月26日夜に捕らえられた。
・坑道に押し込まれた周軍陽は7日後に助けられ生き延びたが、夫の蒋漢鎮、三人の子、8歳林海、6歳雪原、4歳林末は閉じ込められ殺された。
・他に富農や地主とその子14人も坑道の中で閉じ込められ殺された
・夫の蒋漢鎮が連行された翌晩に周軍陽も連行されていったがそこには夫の
他の14人が監禁されていた。
・生産大隊支部書記の唐興浩は「確か、蒋漢鎮には3人のガキがいたな、
連れてこい」と部下に命じて子供たちも捕まえた。
・生産大隊支部書記の唐興浩は坑道の前で「これより生産大隊貧農・下層中農最高裁判所を代表しておまえたちに死刑を宣告する」といったが、処刑を始める前の単なる儀式でしかなく、裁判でも何でもなかった。
・最初に名前を呼ばれたのは蒋文皇という老漢方医で「水を一杯飲ませて下さい」と懇願したが
民兵は「これから死ぬ人間が水を呉れだと---」と毒づいた。
・夫の蒋漢鎮も呼ばれ、鉄棒で殴られ坑道に蹴り落された。
・周軍陽本人もタガネのようなもので殴られて意識を失い、気が付いたら暗い坑道の中で夫と子供三人が近くにいたが、回りには死体が転がっており、地獄もここよりはましだろうと思う程だった。
・子供たちは「お腹が空いた」「ノドが乾いた」と泣き叫ぶがどうする事も出来ず、仕方なく周軍陽は自分のおシッコを一番下の子供に飲ませた。
・しかし夫も子供も次第に衰弱し死亡した。
・虐殺隊が去った後、心配した村人たちが坑道に下りて周軍陽は奇跡的に助けられた。7日経っていた。