宋永毅編『毛沢東の文革大虐殺』298頁以下
◆広西チワン族自治区 賓陽県虐殺事件------3951人虐殺
県革命委員会主任である人民解放軍副師団長が指揮した大虐殺
(前編)
*1968年7月26日~8月6日の17日間
*殺害された者3951人
*現地駐屯の人民解放軍副師団長・王建勲ほか軍事関係機関幹部3名らで「実行指導小組」を組織し、主導した。
「動きが始まって積極分子が発砲し、何人か撃ち殺すようなことがあっても大した問題ではないが
我々としては、拳や石や棍棒を使うように指導する必要がある。そうしてこそ大衆を教育することになり、教育の意義も大きいといえる。」
*公安幹部の一団が「観察員」として全県を隈なく回って末端組織の行なう虐殺を監督し、また殺人の進み具合を毎日上級報告した。県や人民公社の指導者は「進み具合」の遅い組織に絶えず電話で圧力をかけた。
*「23種の人間」の基準により処刑すべき人間をリストアップし、各々の地区で順次殺害した。
*扇動された大衆は棍棒や石で80人~90人をその場で撲り殺した。その中には県病院の院長や副院長、内科、外科、産婦人科、薬局の主任たちも含まれていた。県病院の業務の根幹は殆どすべて失われてしまった。
*7月28日の夜、張維玉ら5人の「四類分子」が批判闘争にかけられたあと棍棒で撲り殺された。
*7月29日動員された人々が「四類分子」および「23種の人間」合わせて30人を縛りあげ、さらに二人一組ずつ一緒に村はずれにある水の溜まった廃坑に押し込み、全員を溺死させた。
*7月29日午後、新橋区革命員会主任の張某と副主任の偉某が新橋墟で虐殺「模範」万人集会を開き、林臣茂ら14人に、「反共救国団」を結成したという濡れ衣を着せて、全員を撲殺した。
そのほか新橋区では合計93人が撲殺され、18人が自殺した。
*7月30日、大橋区紅橋人民公社民兵大隊長の偉某が会議を招集し、その場で、撲り殺す対象の人間をリストアップした。そのリストに載った33人を人民を使って縛りあげ新街嶺まで連行させてし、銃剣、棍棒、石を使って全員殺させた。(つづく)