毛沢東・中国共産党の殺戮の歴史(その8) | 産経新聞を応援する会

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旧国民党(蒋介石軍)の残党だとして71万人を処刑した(反革命分子鎮圧運動1951)


中華人民共和国成立(1949)の後も、毛沢東は虐殺を続けた。



●『中国大虐殺史』石平著(ビジネス社2007年)46

1951年になると、毛沢東からの強制的な殺人命令により、全国規模の大虐殺がまたもや始まった。


「反革命分子鎮圧運動」である。


共産党政権はこの1年間で、71万人の「反革命分子」と称される人々を人民裁判にかけて銃殺してしまった。

1951130日、党・軍・国家の権力を一身の集めた独裁者の毛沢東は、

全党、全軍にたいし、堂々と反革命分子を殺せ」と明確な殺戮命令を下した。-----


---毛沢東はさらに、人口に応じて殺戮のノルマを全国に課した。

「全国の農村地帯で殺すべき反革命分子は人口の1000分の1程度とすべきだが」

「都会の比率では、人口1000分の1を超えなければならない」


つまり、都会では、1000人中、1人以上を殺さなければならないという

毛沢東がどんな根拠にもとづきこうした比率を算出したかは不明だが、とにかく、彼は「それ以上人を殺してはいけない」というのと逆に「これ以上の人を殺さなければならない」という前代未聞の殺人ノルマを全国の党組織と公安機関に課したのである。


※「71万人の反革命分子を死刑」--71万人の数字は中国共産党の「中共党史資料」から出版された『中国共産党執政40(1949年~1989)に登載したいわば中国政府の公式的殺害数。

※この「71万人の反革命分子を死刑」は土地改革で殺害した地主200万人に含まれない数である。


■「反革命分子鎮圧運動」の凄まじさ----1998年に中国本土で出版の『鎮反運動実録』に記述(石平著46頁より)

毛沢東の命令した「殺人ノルマ」を達成するために、罪名をデッチあげ、裁判をしたと称して処刑している。


首都北京------動員大会がなんと626回も開かれ、参加人数は330万人以に。

●「(1951年)324日、北京市は15000人以上参加の人民代表連合裁判大会を開催。

反革命分子による破壊活動の被害者による血と涙の告発を行った。

大会の模様は、ラジオを通じて全国に生中継。

翌日公安当局は、告発された399名の反革命主犯を逮捕し各区域へと連行。

各区域の人民法廷は罪状を公表した上で、その場で判決を言い渡し、直ちに処刑」。


 ※一日で399名の「反革命分子」の「証拠提示」や「告発」があったというが、一人の「反革命分子」の裁判に費やせる時間はせいぜい2分程度にすぎない。2分間で、いったい何の証拠を提示し、何の告発を行うというのか。茶番以外の何ものでもない。 要は、殺す人間の数とメンバーは最初から決められていて、それに従って「粛々」と儀式が進んでいっただけなのだ。

何しろ、毛沢東主席からノルマを課されているから、それだけの人数を殺さなければならないのである。


●3月の処刑からわずか2カ月後の522日、同じく北京で、同様の手法によって、421名の反革命分子が銃殺され、584名の者は無期懲役を含めた懲役に処せられた。

●9月6日には北京で3回目の大量処刑が実行され、今度は318名の反革命分子が命を落とした。