三渓と桂離宮

 

桂離宮の話の続きです。

 

私が以前から気にかかっていることがあります。

それは「原三渓は桂離宮に行ったことがあるのでしょうか?」ということです。

 

確かに三渓は、京都・奈良が大好きだったようで、京都・嵐山、天竜寺の近く、臨川寺に別荘を構えていたことは承知のことです。

また、幼なかった長男・善一郎を連れて奈良を巡ったという記録も残されています。

三溪園を造るにあたっては、庭師をわざわざ奈良に派遣し、勉強させたりしています。

でも、私の拙い知識のなかでは、三渓が桂離宮を訪れたとする記録は見つかっていないようです。

 

その桂離宮ですが、今でこそ、日本文化を代表する建物として評判ですが、三渓の時代、世間一般にはそれほど知られてはいなかったと思われます。

維新後、離宮そのものが宮内庁の管理になっていますから、一般の人には縁遠い存在だったでしょうね。

 

桂離宮が広く世に知られるようになったのは、どうやら昭和になってかららしいのです。

しかも、そのきっかけは、例によって外国からの刺激です。

ご存じ、ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが1933年(昭和8年)に日本を訪れます。その彼の、日本の印象を記した著作(「日本美の再発見」など)のなかで、桂離宮を激賞したことで、ヨーロッパ人が日本文化に注目します。

日本人はその外からの刺激を受けて、桂離宮のような日本固有の文化に気が付かされるのです。

なお、そうした時期、既に三渓は老境に入っています。

 

日本での動きです。

今のような桂離宮ブームになるのは戦後のことのようです。

三渓と縁の深かった二人、数寄屋建築の専門家・堀口捨巳が桂離宮の研究論文を発表したのは 戦後大分経った1952年で、さらに和辻哲朗が桂離宮に関する論文を書いたのは1955年のことになります。

でも、当の三渓は大分前に亡くなっています。(1939年没)
 

ちなみに、三溪園の中核「臨春閣」が「東の桂離宮」と呼ばれていると、よく言われます。

でも、これも三渓自身が言っていることではないようです。

想像するに、桂ブームがおきたのちに、あるいは堀口捨巳か誰か、「そういえば、三棟が雁行する姿は桂に似ているネ」とつぶやいた言葉が、関係者の間に広がっていったのかもしれません。

  (上:桂離宮、下:臨春閣全景)

あるいは、古都好きの三渓のことですから、当然ながら桂離宮の存在を知っていたとも想像できます。

でも、あまり食指が動かなかったのではないでしょうか。

その理由です。

 

ひとつ、「桂離宮」の造営に小堀遠州が関わったとする説があります。

実は、この遠州のこと、三渓は大嫌いだった、といいます。

      (詳しくは当ブログ第115話:2018,7,8付参照)

小堀遠州は、江戸初期に、京都御所・二条城・名古屋城など多くの普請に作事奉行として関与し、庭造りでも大徳寺・仙洞御所のほか、桂離宮の作庭にも関わったとする説もあります。なかでも、桂の入り口周りの飛び石は遠州好みとされています。

 

三溪はその著書のなかで、小堀遠州とその好みについて罵倒しているのです。

『徳川家において、普請奉行にして美術の総番頭たる小堀遠州は、小慧細巧の俗吏にして……遂に日光廟の建築ごときものあるに至らしめたり。…徳川氏の芸術を堕落せしめたるの罪、惜しんで余りあるものあり。…』(「三溪先生の古美術手記)より」

 

ここように、大嫌いだった遠州が関わったとする桂離宮に、三渓は興味を持たなかった、のではと想像するのですが……。

 

まあ、専門家は専門家なりに、素人は素人なりに、いろいろ想像しては、楽しみましょう!