あちこちで紅葉の話題が多くなりました。三溪園でも18日から「紅葉の特別公開」と称して、園内の重要文化財が二棟公開されるといいます。といっても中に上がって入れるわけではないようですが…。紅葉は、例年のように、まだちょっと早いようです。覆堂の後ろの銀杏の落葉が目立つ程度で、紅葉はやや色付き始めたばかりという様子です。(11月17日付)見頃は例年通り、月末になりそうですね。

 

さて、これまで、茂木惣兵衛とか野村洋三などの業績についてお話してきました。その中に、原家初代の原善三郎の名もよく出てきました。

ところが、気がついてみたら、この善三郎の業績、なんか当たり前のような気がして、纏まった形で、ちゃんとお話していないのです。

今回は、原善三郎のこと、改めて紹介したいと思います。

 

原善三郎(1827~1899)

                    

原善三郎は、文政10年(1827)、武蔵野国児玉郡渡瀬村(現埼玉県児玉郡神川町渡瀬)で、素封家・原太兵衛の長男として生まれました。

まだ徳川将軍は11代・家斉の時代で、沿岸には外国船が頻繁に姿を現し、2年前には「異国舟打払令」が発せられるなど世情が騒然とし始めたころになります。

生地・渡瀬の脇を流れる神流川は、武州(埼玉)と上州(群馬)を隔てる境となっている場所です。原家は、農業のほか、製糸、製材、質屋などを手広く営む豪商でした。特にこの地方の特産である日本紙や蚕糸の仲買に力を入れていたといいます。弟妹が7人いるなかで、善三郎は14歳の頃から家業の見習いを始めます。近隣の秩父・上州などで、生糸や絹布を集め、大宮や時には江戸の呉服屋まで卸す仕事でした。これらの仕事を通じて、生糸を見る確かな眼を養っていったのでしょう。

21歳のとき、親の勧めで隣村の加藤喜三郎の次女・もんと結婚しますが、一人娘・八重を残して早世してしまっています。

 

1853年ペリーが来航し、1859年、遂に横浜が開港されます。その様子を探ぐろうと、善三郎が横浜に初めて足を踏み入れたのは、開港から僅か3か月後の9月のことです。

当時、この横浜の関内の土地は、すべて幕府が所有していました。その上、そこでの外国人との商売は許可制です。ですから、そこでの商売といえば、許可を取って店を構える売込商としか取引ができないわけです。

その売込商に売る生糸を携えて、何度も横浜を往来して、こうした様子を窺い、善三郎は実家に戻り、「これからの商売は横浜でなければ…」と父親を口説いて資金を出させることに成功します。その時の資金は、一説によればなんと2千両だったといいます。

横浜に戻ると、千両で、すでに店を構えていた一軒の売込商の借地権と店舗を買い取り、自らの店を開くことに成功します。1862年のことです。

店の名前は「亀善」です。以降、善三郎は「亀屋善三郎」、通称「亀善」と呼ばれるようになります。     

(弁天町にあった「亀善」の店)

 

ついでに説明しておきます。横浜開港当初には、93軒の生糸売込商が認められたといいます。その後1866年には131人に増加しています。それが明治6年(1873)に生糸改会社に加入した者は33人と、四分の一に減少しています。そのうち維新前から生き残った商人は16人にすぎなかったといいます。そのような厳しい競争のなかで善三郎は着実に力を付けていきます。

 

その後の活躍は、目を見張るものがあります。生糸を見る確かな眼をもって、「亀善の生糸は品質が確かだ」という評判をとり、その気風の良さも手伝って、たちまち横浜でも五本の指に入る大商人となります。

その勢いは、当時のザレ唄に「横浜は、きも悪しきも亀善腹(原)ひとつにて事決まるなり」と謡われたほどです。また明治5年には、東京新橋・横浜間の鉄道開通にあたって、横浜側で行われた落成式で、明治天皇の前で、神奈川県民を代表して挨拶を行っています。善三郎の存在が、横浜のなかで如何に重きをなしていたかが、よく判るエピソードです。

その勢いを数字で示しておきます。

明治2年(1869)には「亀善」だけで、横浜の生糸輸出額の22%(金額にして約2千万円、別のデータでは亀屋+野沢屋で33%以上)を占めるようになったといいます。さらに、明治6年の一年間の横浜からの生糸輸出量は1569万円(全国で2163万円のうち)で、このうち4分の3を上位五人(亀屋、野沢屋、吉村屋など、実質的には原・茂木だけでで37%)で占めていたといいます。

 

明治5年頃になって、新政府は生糸業界の近代化を推し進めていきます。そんななかで設置された半官半民の機関で、善三郎は重要な地位を担っていきます。その最大なものは、前回もお話しましたが、「横浜生糸改会社」の会頭となったことでしょう。また同年、国が国立銀行条例を制定したのに伴い、横浜に設立された「第二国立銀行」の初代頭取にも就任しています。

なお、この銀行、国立と称してはいますが、政府とは資本関係はない、純然たる民間銀行です。これは渋沢栄一がこの制度を作るさい、アメリカの制度「ナショナル・バンク」の呼び方を「国立銀行」と訳したことによるのです。このとき同時に設立された国立銀行は、渋沢が自ら頭取となった第一(東京)のほか、第二(横浜)、第四(新潟)、第五(大阪)です。第三が抜けているのは、大阪で鴻池屋が中心になって設立する予定だったものが、もめごとでご破算になった影響です。

その後も善三郎は、外国商人、あるいは国内の商人との間に生ずる様々な場面において、茂木惣兵衛ともども、業界の先頭に立って活動しています。そして、明治13年には「横浜商工会議所」を設立して、自ら社長に就任しています。

善三郎の活躍は実業界だけではありませんでした。明治12年には、第1回県会議員に選ばれ、明治22年には横浜市議会の初代議長を務めています。さらに国政にも進出し、明治25年には衆議院議員に選出され、明治28年には貴族院の多額納税議員に選ばれています。

余談になります。この国政に乗り出したころの話になるのでしょうか。善三郎の本牧の別荘に、時の総理・伊藤博文が陸奥宗光とともに訪れたとの話が残されています。このとき、伊藤が、この別荘の名を「松風閣」と名付けたと伝えられていますが、それが何年のことだったとか、確かな記録には残されていません。

 

善三郎の個人の生活の話になります。

当時の慣例として、原家も関内・弁天町にある本店のなかに住まいを構えていましたが、家業の発展と共に、当然手狭になっていきます。一方で、当時横浜に住む外国商人たちは、店とは別に東側の小高い丘の上(今の山手地区)を中心に邸宅を構えていました。これに倣って、原や茂木たち日本の大商人たちも、外国人とは反対の、西側の丘、野毛山付近に次々と別邸を建てていくことになります。

ここでも原と茂木は隣り合って別邸をたてることになります。茂木邸では、この別邸で毎年秋になると、庭を市民に公開して菊花展を開くのが恒例となっていたといいます。原家は、三溪の代になって、その本宅を本牧に移したことは承知のとおりです。

これら屋敷のあった野毛山一帯は、関東大震災で大きな被害を受け、その後横浜市に譲渡され、野毛山公園として再出発することになります。現在は、茂木邸のあった場所は動物園となっており、原邸のあった場所は散策路コースとして利用されているところにあたります。

同様に他の商人たちの邸宅跡も、市長公邸や図書館、学校用地として、現在にまでその痕跡を残すことになったのです。

  

          ( 1923年頃の野毛山公園  右:野毛山にあった原善三郎別邸)

 

ここで善三郎の家庭のことを振り返ってみましょう。先に述べたように、30代半ばで最初の妻を失っています。さらに貴族院議員に選ばれた明治28年には、二度目の妻(53歳)と、先妻との忘れ形見の八重(43歳)にまで先立たれてしまいます。残されたのは八重の娘・屋寿一人です。この孫娘・屋寿の婿が三溪こと青木富太郎であることは承知のとおりです。

明治32年2月、病を得た善三郎は72年の生涯を閉じます。久保山で行われた葬儀には、吹雪のなか、5千人を上回る会葬者があったといいます。原家の家督は、三溪の長男・善一郎が善三郎の養嗣子となって継ぐことになります。墓は久保山墓地内にあります。

     

最後に付け加えておきます。

たびたびお話したように、原善三郎と茂木惣兵衛(初代)は、横浜の実業界で、無類のコンビとして活躍しました。生まれ年も同年で、生まれた場所もほんの近くでしたし、横浜に出てきたのも、ほんの1,2年違いです。商売も同業で、常に1,2位を争う仲でした。店も弁天町で隣り合っているかと思うと、別荘まで隣り合うという仲の良さです。銀行をつくれば頭取、副頭取の関係を保ち、公共事業への出資とか寄付とかは常に同額だったといいます。原善三郎・茂木惣兵衛のふたり、横浜創成期の、またとない実業家コンビだったのです。