コロナ前くらいまでは、マスコミや政府が出す情報は多くの人がそうであるように、そして私の両親がそうだったように、基本的に正しいと信じて疑わなかった。政府が言っていることは国民を守るためだと勝手に思い込み、盲目的に信じていたような気がする。そしてそれが当然だと。教育現場でも文科省から降りてきたことは、全てやり遂げることが自分の使命のようにすら思っていた時もあった。教育現場で「自ら考える力の育成」をうたっているくせに、教育者の立場である自分自身が全くの受け身、思考停止で掲げられた使命をなにも考えることなく盲目的に信じてそれの達成に向けて努力することが、子どもたちのためにもなると思っていた。

 

 けれど、コロナ禍での様々な経験を経て、情報操作の怖さと思考停止の怖さを思い知らされた。いろいろな説が飛び交う中、どれが真実なのかは未だに分からない。陰謀説、沢山あったワクチンの効果と副作用、感染源、感染経路、ほぼ曖昧なまま共存という終息へ。私はどれかが正しいとかこれが間違っていたとかそういうことを言いたいのではない。どれも、興味深い話だ。どの説も一理あるし、どの説もそれらしい。そしてどの説も100%ではない。

 ただ、溢れる情報をどのように取捨選択するのかは自分だということを肝に銘じたコロナ禍だった。コロナ禍、私はオーストラリアにいた。オーストラリアでは最初の頃は年が上の人たちはA会社のワクチンが半強制的にあてがわれていた。このワクチンは現地の人たちからも「血液が固まりやすい」という副作用があると説明されていて、私は、これを打ちたくなくて、その当時日本の報道で一番副作用が少ないとされていたF会社のワクチンが届くのを待っていた。この時私は日本の情報をネットで集め、少しでもリスクが少ないと思われたワクチンを選んだと思っていた。ワクチンを打たないと働けなかったので、私も打つ以外の選択肢がなかったのだが、必須の2回ワクチンを打っただけで、身体が本当に拒否反応を示していて、生物的な感覚としてワクチンは身体に良いものではないことは説明されなくても分かった。年月が過ぎ、どれだけワクチンの副作用や良くないことが分かっても、両親世代は頑なにワクチンが良いと信じてやまない。あれだけの副作用を体験して実感しても自分の感覚より情報操作に洗脳されるのだなと、怖さすら感じる。信じる者は救われるので、何を信じて生きるかはそれぞれの自由だと思うから、他人が信じているものを否定はしないが、一旦懐疑的な視点からものをみると、いろいろな視点から物事を見るようになる。

 それが良いことか悪いことかはわからないけれど。